第Ⅰ章 湖東編⑥ 宇佐山城

織豊系城郭の宇佐山城へ

2018年3月28日、瓶割山城へ訪れた筆者は次いで、滋賀県大津市の宇佐山城に向かった。本章は湖東編と題するが、宇佐山城は実際には湖西に位置する城である。

当城を本章に組み入れた理由は、当日訪城のラストでかつメインとして、すえたいという筆者の個人的思いがあったためである。瓶割山城麓から宇佐山城への登城口がある宇佐八幡宮までは、もっとも早く移動できるであろう名神高速道路を利用して約50Kmの距離がある。瓶割山城麓を出発したのは午後3時30分を過ぎており、登城口がある宇佐八幡宮に到着したころには、すでに夕日が傾きかけていた。

近江と京を往来する道の監視のために森可成が築く

宇佐山城は永禄13年(1570)に織田信長の家臣、森可成が信長の命を受け築いた。近江国・志賀の地に築かれたことから、『多門院日記』をはじめとする当時の記録には、「志賀乃城」または「志賀要害」として登場する。当時、近江と京を結ぶ主要道は、山中越(現・滋賀県道30号線付近)と逢坂越(現・国道1号線付近)の二道があった。森可成は、この二道を閉鎖して、新たに宇佐山城麓を通過する新道を開いた。すなわち宇佐山城が築かれた当初の目的は、京へと往来する唯一の道を押さえ、監視するものであった。やがて城主の変遷とともに、城の運用方法も変わっていくことになる。

志賀の陣 朝倉・浅井方が襲来し森可成は戦うも討死

元亀元年(1570)7月、三好三人衆と、それに呼応した石山本願寺が摂津で蜂起した。織田信長は摂津へと出陣し、その隙をついて姉川の戦い以来、なりを潜めていた浅井・朝倉連合軍が湖西方面へと兵を動かした。浅井長政は琵琶湖を北西に迂回して南進し、朝倉義景は若狭口より南下した。両軍は今津で合流し、9月16日、浅井・朝倉連合軍3万と僅か千の兵を率いた森可成織田信治の軍が坂本で激突した。初戦は織田方が勇戦したが、19日には浅井・朝倉方は二方向に分かれて進撃し、翌20日には激闘の末、森可成織田信治らは討ち死にした。勢いに乗った浅井・朝倉連合軍は宇佐山城の端城まで攻め上がってきたが、城兵は城を固く守り撃退している。

信長が宇佐山城に入城

23日には、急報を聞いた信長が大坂の陣を引き払って京を経由し近江へと向かった。浅井・朝倉連合軍は比叡山系の青山・壺笠山に立てこもり、信長は宇佐山城を本陣として包囲した。両軍の対陣は12月まで続き、同14日に朝廷からの講和勧告である綸旨によって和議が成立して両軍は兵を引いた。

宇佐山城は明智光秀の本拠に

志賀の地は明智光秀に与えられ、元亀3年(1572)に坂本城が築かれるまで宇佐山城を本拠としていたという。坂本城が築かれた後、ほどなく宇佐山城は廃城になったと考えられる。

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宇佐山城 鳥観図

急ぎ宇佐山城に登城

宇佐山城は比叡山系の宇佐山(標高336m)に築かれ、瓶割山城より到着した筆者は、山腹の宇佐八幡宮から遊歩道を急いで登った。

 

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宇佐山八幡宮から続く遊歩道

時間はすでに午後4時30分を過ぎており、すでに周囲は薄暗かった。

 

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写真位置①の石垣

遊歩道を歩くこと20分、左手に石垣が見えてきた。遊歩道から外れて、やや斜面を登って近づいてみると、高さは約1.5m前後で端部は崩されているように見える。破城の痕跡であろうか。

宇佐山城の本城部を見学

宇佐山城は、最高所に主郭Ⅰを配し、その南側にⅡ郭、主郭Ⅰ郭の北東に堀切を隔てて、Ⅲ郭を配置した縄張りである。なお、Ⅲ郭の北東尾根続きにも城郭遺構があるという。この北東尾根続きの城郭遺構こそが元亀元年に森可成が討ち死にした後、浅井・朝倉連合軍が攻め上がってきた端城の跡だという。今回の訪城では、時間の都合で本城部のみの見学に留まり、見学することができなかった。またの楽しみにしたい。

メインルート沿いに築かれていた石垣

遊歩道は、山麓から城址直近までは一部当時の城道(大手道)を踏襲している可能性が考えられる。遊歩道はこのまま堀切(写真位置②)へとつながるが、推定される本来のメインルート(大手道)としての城道は石垣前(写真位置①)より南西へと伸びて曲輪Ⅱの南にある腰曲輪群を通過して主郭Ⅰへと向かったようである。現在、宇佐山城に見られる立派な石垣は、すべて推定される城道沿いに築かれている。

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写真位置② 堀切

主郭ⅠとⅢ郭の間を遮断する堀切である。だが一見すると幅の広い虎口のように見える。写真位置①の石垣から堀切へと至る遊歩道は従来から城道とはみなされてこなかった。しかし主郭ⅠとⅢ郭の往来の方法がないこと、さらに、この堀切の南側にある横堀状遺構の存在を考えれば、Ⅲ郭方面へのルートとしては確立していたと考えるのが自然ではないだろうか。

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写真位置③ 横堀状遺構

内部は堆積物により埋まっているが、横堀を形成する土塁がよくわかる。右側は主郭Ⅰの切岸で、横堀内には石垣に使用していたと思われる石材が散見される。主郭Ⅰの切岸は石垣によって固められていたのであろう。

横堀状遺構は塹壕であった可能性

この横堀状遺構を塹壕と考えれば、主郭ⅠとⅢ郭間の堀切の意味が見えてくる。Ⅰ郭とⅢ郭の間に入った侵入者は両郭から攻撃され、なおかつ塹壕内の守備兵からも狙撃されたことであろう。この堀切内へのルートが存在していないとすれば、Ⅲ郭も横堀状遺構も意味をなさなくなるのである。塹壕内へは主郭ⅠからⅣ郭を通過して入ったと思われ、それらをつなぐ手段としては、有機物である木製の梯子や階段を利用していたと筆者は考える。ゆえに、今はその痕跡を地表面に残さないのであろう。堀切内部から主郭Ⅰの切岸に付けられたコンクリート製の階段を登りきると、主郭Ⅰ内部に入る。

 

放送施設建設に伴う発掘調査が行われた主郭Ⅰ

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写真位置④ 主郭Ⅰ


主郭Ⅰは、くの字状で城内では最も広い面積を有する曲輪で、現在はNHKの中継所が建てられている。昭和43年、放送施設建設に伴う発掘調査が実施され、主郭Ⅰからは瓦や排水遺構・石段等が検出された。織田信長は元亀元年(1570)9月末より約二か月間にわたって宇佐山城を本陣として、朝倉・浅井方と対陣している。同年11月には、公家・山科言継や六角承禎(義賢)らが宇佐山城に訪れ、会所機能を持つ、御殿のような建物で信長と対面したという。また、山麓には家臣が住まう「小屋」が建てられ、宇佐山城は織田家の準本拠としての位置づけとなっていた。宇佐山城の運用法は、森可成在城期とはうってかわっていたようである。

 

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写真位置⑤ 食い違い虎口

主郭Ⅰ郭の南側には食い違いの虎口を通過してⅡ郭へと繋がるが、その食い違い虎口の一部を形成する土塁を主郭Ⅰ側から見たものである。土塁は分厚く、Ⅱ郭側は横堀を用いて切岸を高くする工夫がみられる。

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食い違い虎口 概略図

Ⅰ郭とⅡ郭間の簡単な図を描いてみた。Ⅱ郭から直進した侵入者はⅠ郭の切岸で進路を左に折られ、さらにⅠ郭に入るには右手にもうひと折れすることが要求される。この食い違い虎口は、ひと折れした先の前方は城門で閉ざし、Ⅰ郭の切岸と南側の土塁で閉塞された空間を作って、侵入者に対しては主郭Ⅰ南端部の櫓台から攻撃を行い殲滅する・・という仕組みだったのではないだろうか。

 

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写真位置⑥ Ⅱ郭

Ⅱ郭は長方形に近い形状で、城内第二位の規模を有する。中央部分が有刺鉄線で囲まれており、南側は矢竹が密生していた。

 

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写真位置⑦ 腰曲輪に続く竪土塁状の通路

Ⅱ郭南西には、腰郭に降る登り土塁状の通路がある。それに従って腰郭に降りてみた。

 

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写真位置⑧の腰曲輪

面積は小さいがⅡ郭へ向けての切岸は鋭角で、曲輪内は灌木が繁茂していた。ここからさらにもう二段、腰曲輪が連続しており、降りてみることにした。

 

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写真位置⑨の腰曲輪

これらの腰曲輪は、写真位置①から続く主郭Ⅰへのメインルートの途中にあり、通路を兼ねた曲輪として利用されていた模様である。戦時には兵を駐屯させ、障害物を作って主郭への通路を守ったことであろう。

登城者に見せるための石垣

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写真位置⑩の石垣

写真位置⑨の腰曲輪直下には高さ1.5m前後の石垣が残されている。是非、見逃さずにおきたい遺構の一つである。宇佐山城の石垣は坂本の町に面したのみに見られるものの、現在残る状況から高さ等を推定復元しても山麓から映えるように見える威圧的なものではなかったと考えられる。それらはすべて主郭Ⅰへと向かうメインルート沿いに集中していることから、登城者に対する視覚的な意味合いが大きかったのであろう。

 

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写真位置⑪ Ⅲ郭

主郭Ⅰ北方のⅢ郭へと移動した。この曲輪も規模が大きく、主に兵の駐屯を目的としたのではないだろうか。

 

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写真位置⑫ 石積み

Ⅲ郭の東側の切岸には土留めを目的としたであろう石積みが残されている。

現在残る縄張りについて考察

さて、宇佐山城の本城部を見学してきた。現在残る遺構や縄張りは、いつの時期に完成したかを考えてみたい。

森可成

森可成期には、近江と京を往来する道の監視を第一の目的とし、山上に居住するという考えはなかったであろう。また、山上で会見するような会所的な機能を持つ建物もなかったであろうし、登城者に対する視覚的な意味合いを持つ石垣も必要はなかったと思われる。

織田信長

朝倉・浅井方が来襲したという急報を聞いて出陣先の大坂より急遽もどって宇佐山城に入った信長自身は、長期滞陣になることまでは予測していなかったであろう。信長期の宇佐山城は、長期滞陣になるにつれて、なし崩し的に準本拠的な城へとなっていったのではないだろうか。会所機能をもつ建物が建てられたものの、信長在城した短い期間では現在みられるような石垣を含めた遺構が完成されたとは考え難いのではないだろうか。もしなしえたとすれば信長在城中は城内各所で工事中(普請・作事)が行われていたということになる。対朝倉方の本陣として使用し、六角承禎や使者との会見も宇佐山城で行われていることから、そのような工事がなされていた可能性は低いであろう。

現在残る縄張りは明智光秀によって成立した可能性が高い

元亀元年(1570)12月、朝倉・浅井方と和睦が整い、信長は退城した。信長の在城期間はわずかに2カ月余りにして、宇佐山城は明智光秀に与えられた。光秀は坂本城を築き移るまで、約2年間にわたって本拠とした。光秀期の宇佐山城は、連歌会が催されたり、公家が来訪するなど信長期に存在した施設が引き続き使用されていたと考えられている。また、調略によって味方に引き入れた在地土豪の和田氏の軍勢を城内に駐屯させていることから、城内施設も信長期よりもさらに充実していたと考えられる。登城者に対して印象的に映る石垣がこの段階で築かれた可能性も高いだろう。したがって筆者は、今見られる縄張りが成立した時期は明智光秀の段階であったというのが、もっとも蓋然性が高いのではないかと考える。

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宇佐山城から見る琵琶湖

夕暮れの琵琶湖をながめて

宇佐山城から見る、夕暮れ時の琵琶湖である。2018年3月28日、大森城からスタートして井元城、布施山城、佐生城、瓶割山城、そして宇佐山城へと巡った。織豊系陣城から六角氏が築城に携わった城を経て、最後はまた織豊系城郭へと回帰した?一日となった。中身の濃い一日であったが、まだ湖国の城巡りは、はじまったばかりである。さて、第Ⅱ章からは城友と共に城を巡ることになる。こうして夕日を眺めている筆者には第Ⅱ章以降の展開が予想できるはずもなかった。まずは、ここで湖国の城を巡る 第Ⅰ章 湖東編の筆をおきたいと思う。

 


湖国の城を巡る 第Ⅰ章 湖東編・参考文献


林家辰三郎 ・編(1979)『新修・大津市史 2』大津市役所
児玉幸多・監(1980)『日本城郭体系11』新人物往来社
マキノ町誌編纂委員会(1987)『マキノ町誌』マキノ町
戦国合戦史研究会(1988)『戦国合戦大事典 5』新人物往来社
今谷明・編(1988)『室町幕府守護職家事典 下』新人物往来社
中井均・編(2006)『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版
城郭談話会・編(2014)『図解・近畿の城郭Ⅰ』中井均・監 戎光祥出版
城郭談話会・編(2017)『織豊系城郭とは何か・その成果と課題』村田修三監・戎光祥出版
新谷和之(2018)『戦国期六角氏権力と地域社会』思文閣出版
かみゆ歴史編集部(2018) 『廃城をゆく6』イカロス出版

第Ⅰ章 湖東編⑤ 瓶割山城

瓶割柴田の伝説が残る瓶割山城へ

2018年3月28日、前稿の佐生城に続いて近江八幡市の瓶割山城に訪れた。

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登城口のある山麓日吉神社

城址は、別名・長光寺城と呼ばれ、山麓日吉神社裏から遊歩道が続いている。

六角氏一族の抗争と瓶割山城

室町時代末、近江・六角氏は家督継承を巡って、一族間における抗争が激化していた。
応仁の乱では宗家である観音寺城六角高頼が西軍につき、一族の六角政堯が東軍にその身を置いた。
瓶割山城は、応仁2年(1468)六角政堯が敵対する高頼に備えて築いたと伝えられる。
文明3年(1471)8月政堯が高頼に敗れ討死すると、瓶割山城は高頼が支配することとなった。

政争に敗れ、京より逃れた将軍が仮の御所を築く

大永7年(1527)には当地に政争に敗れ、京より逃れてきた将軍・足利義晴が六角氏庇護を受け長光寺に仮の御所を構えたという。
連歌師・宗長の『宗長日記』には、仮の御所を築く際に築地の普請等を行ったと記すが、御所を構えたのは山上の城郭か、または山麓長光寺であったかは定かではない。
なお、長光寺は現在も瓶割山城東麓に存在する。

織田信長の侵攻と瓶割柴田の伝説

永禄11年(1568)、六角氏は上洛する織田信長の協力を拒否し侵攻を受けた。本拠・観音寺城を放棄し六角義賢・義治父子は甲賀に逃れて、甲賀を除く南近江は織田方の支配下にはいった。
元亀元年(1570)、体勢を立て直した六角方は旧領・南近江へと侵攻した。
織田方の柴田勝家は瓶割山城に籠城し、攻め寄せた六角方に包囲された。勝家は残った水を城兵に飲ませると、蓄えは無用と水瓶を薙刀で割った。すると兵の士気は上がり、
勝家は夜明けとともに六角方を急襲して散々に打ち破ったという。この伝承から城址のある山は、瓶割山と名付けられ城の名も瓶割山城と呼ばれるようになったという。

その後、瓶割山城は織田家臣・柴田勝家が拠点として利用した。

信長が鷹狩の山として訪れる

信長公記』には天正6年以降に度々、信長が鷹狩に長光寺山に訪れたとする記述がある。しかし、それは城としてではなく鷹狩の山として記述されている。そのことから、安土城が築かれる天正4年(1576)頃には廃城になっていたと考えられている。

 

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山上、一の郭に設置された説明版の縄張り図(写真位置を加筆)

日吉神社より整備された遊歩道

山麓日吉神社前及び山上の一の郭には縄張り図が掲載された説明版が設置されている。神社前の道路は狭く、自家用車で訪れる場合は近くには専用駐車場が用意されていないため、注意が必要である。

 

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山麓日吉神社裏にある登城口

遊歩道は整備されているが、尾根筋を歩く険しい道が山上まで続く。一の郭までは約30分ほどの時間を要した。

 

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写真位置①の堀切

遊歩道を登りきると、一の郭と二の郭の間の堀切へと入る。

高さ6mに及ぶ高石垣

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写真位置②の柴田勝家在城時に築かれたとみられる石垣

一の郭の切岸には高さ6メートルに及ぶ石垣が残る。瓶割山城は元亀元年(1570)以降、織田方の柴田勝家が在城した際に改修を行ったと考えられ、この石垣は織田方によるものではないだろうか。

 

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写真位置③ 一の郭

最高所に位置し、もっとも規模の大きい曲輪である。周囲は帯曲輪状になっているが、段差も曖昧で全体的に削平が甘い。端部に行くほど土が流れ出したかのように傾斜がかかる。石垣で区画していたが石垣の石を持ち去られたため、土砂の流出を招いた、ということだろうか。

 

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一の郭から西側を望む

一の郭から西側を望んだ眺望である。近江八幡市の市街が一望できた。右手前の高い山の山上には第二章・湖南編で訪れる八幡山城がある。

六角氏・織田氏時代の石垣が混在する

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写真位置④ 土留の石垣

東側尾根に至る位置の曲輪には、土留として石垣が用いられている。高さは50cm程度である。一の曲輪の石垣と比較した場合、あきらかに積み方や鈍角に屈折させるなど趣が違う。後に訪れる小堤城山城のものと、よく似ているように感じた。これは織田方が支配する以前の六角氏時代のものではないだろうか。

安土城の石材として持ち去られた?

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写真位置⑤ 石垣の残石と見受けられる石

東側尾根の曲輪には、石垣の残石と見受けられるものが多く残されている。それらは人為的に崩されたり、打ち捨てられているようにも見受けられる。『信長公記』には、安土城の石垣を築く際に、「所々の大石を引下」し安土に運んだという記述がある。
その大石を採取した山の中に、瓶割山城が位置する長光寺山も含まれている。これらの痕跡は、その当時のものかもしれない。

 

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写真位置⑥ 北西の腰郭群

北西の尾根は、段状に腰曲輪が連なり、途中、堀切を超えると三の郭へと至る。

 

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写真位置⑦ 三の郭・鍵の手状の土塁

三の郭は鍵の手状に土塁が用いられ、現地では米蔵とも呼ばれている。土塁は張り出しを設けて、谷筋より攻めあがってくるであろう侵入者に対して横矢をかけられるようになっている。

 

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写真位置⑧ 二の郭

一の郭南の尾根には二の郭がある。西側に土塁が用いられていた痕跡が残り、南側は堀切で遮断している。また、一の郭との間も、堀切で遮断されているように見受けられるが、よく観察すると一旦堀底に降りて対面の曲輪に登っていた可能性も否めない。

石材が抜き取られ、旧状がわからない

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写真位置⑨ 一の郭・南西端部の石積み遺構

一の郭の南西側端部をよく観察すると、虎口を形成していたであろう石積みの跡を見ることができる。瓶割山城を俯瞰して見ると、一の郭を中心に大きく改変を受けていると考えられる。その改変はおそらく天正4年(1576)の安土城築城に際しての石取りに求めることができるのではないだろうか。
ともあれ、筆者は第Ⅰ章湖東編、最後の訪問先である宇佐山城へと急ぐこととした。

第Ⅰ章 湖東編④ 佐生城

石垣が多用される観音寺城の支城

2018年3月28日、前稿の布施山城に続き、東近江市の佐生城に訪れた。

登城口は、観音寺城が位置する繖山の北方尾根続きにある北向岩屋十一面観音の駐車場先から遊歩道が続いている。

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佐生城・概略図

六角氏の重臣・後藤氏

詳細な築城年代や歴史は不明であるが、戦国期には後藤但馬守賢豊が城主であったとされる。後藤氏は六角氏の重臣で、東近江市中羽田の後藤館を中心とする一帯を本貫地としていた。

戦国期の後藤氏当主・後藤賢豊は、六角氏当主の六角義賢に重用され奉行人として当主に代わって政務を執行する権限を持たされていた。

また、浅井氏との戦いでは戦功を挙げるなど他の六角家臣からも信望を集める人物で、家臣団中では、ヒエラルキーの上位に位置していたことが知られる。

観音寺騒動のきっかけとなった後藤賢豊の暗殺

永禄5年、六角義賢は子の義治に家督を譲るが、やがて義賢と義治は対立していくことになる。永禄6年10月、義賢に重用され権勢を誇る賢豊を疎ましく思う義治によって賢豊は観音寺城内で暗殺された。『足利季世記』は、10月1日、主君よりの使いがあったと聞いた賢豊と子の又三郎は、早朝に観音寺城に出仕し、若党を率いた建部・種村の両氏によって四方を取り囲まれ殺害されたと記している。

賢豊の暗殺は六角家臣団の反発を招き、義賢・義治父子は観音寺城を退去せざるを得なくなった。家臣団と和解した当主父子は家臣が起草した当主の権限を制約された「六角氏式目」を認め、やがて織田信長の侵攻をむかえることになる。

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北向岩屋十一面観音駐車場から続く遊歩道

北向岩屋十一面観音駐車場から続く遊歩道は、木製階段が設置され歩きやすくなっている。アップダウンが続く道を歩いていると、男性と女性の方が木製階段の補修をされていた。快適に散策できる城址は城への遊歩道、さらには整備を受け持ってくれる方々の努力により成り立っていることを忘れてはならないと実感した。

六角氏によって築かれた高石垣の城・佐生城

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写真位置① 主郭西側の石垣

遊歩道を歩き詰めると、隅部を算木積みとした石垣が見えてくる。

高さは約3mほどで、織豊勢力によるものではなく、戦国期の六角氏が築いたものということには驚かされる。観音寺城に向かう尾根筋の方向には、平入りの虎口が開口する。

 

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写真位置② 主郭北西の石垣

北西方面へと歩くと、こちら側にも石垣が積まれている。上部は欠落しており往時は相当な高さの石垣であったと考えられる。

 

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写真位置③ 主郭

平入の虎口を通過し、主郭に入ってみた。主郭は台形の形状で、周囲は土塁で囲まれ、東西は段差を用いて区画している。全体的に俯瞰すると、石垣が多用されてはいるが、縄張りは単郭の城で小規模なものである。

 

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写真位置④ 城址

主郭には、後藤但馬守城址と彫られた碑が建てられている。後藤氏は、観音寺城北方の守備のために築かれた佐生城の城主として、派遣されたと考えられる。

 

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写真位置⑤ 主郭南側の石垣

主郭南側の石垣で、長さは約50mに渡る。東山道を見下ろす位置にあることから視覚的な意味合いを持って構築されたものと推察される。

 

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写真位置⑥ 主郭南西側の石垣

主郭南西側の石垣は緩やかなカーブを描いて築かれている。石垣に張り付いた侵入者に対して横矢を掛けようとする意識のあらわれであろう。

 

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写真位置⑦ 主郭南東側の張り出した石塁

南側の石垣の東端には下部に石塁がやや張り出したものがある。横矢掛けというより隘路として通り難くすることを意識したものであろうか。

 

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写真位置⑧ 石段の痕跡

主郭北側には石段の痕跡らしきものが残っていた。北側尾根からの登り道として使用した可能性も考えられる。佐生城は三方の尾根筋に対して、唯一北側のみ堀切の痕跡が確認できる。その堀切も完全に遮断したものでなく、土橋を用いて往来を可能なものとしている。

 

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写真位置⑨ 主郭東端の石垣

主郭東端の石垣である。主郭への虎口が開口している。

 

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写真位置⑩ 主郭東の食い違い状を成す岩石

主郭東には、巨石や空堀を用いて食い違いの虎口を形成している。

 

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主郭からの眺望

今は、木々が繁茂して山麓から佐生城の石垣の威容を見ることはできないが、往時は東山道から石垣つくりの城郭が良く見えたであろうと思われる。
筆者は次の訪問先である、瓶割山城へと急ぐこととした。

 

第Ⅰ章 湖東編③ 布施山城

六角氏有力被官・布施氏本家の城郭

前稿の井元城をあとにした筆者は、東近江市布施町にある布施山城へと向かった。

城主は六角氏被官で、布施氏の本貫地である蒲生郡布施を領する本家筋の布施三河守家である。
永禄6年の観音寺騒動で三河守家は北近江の浅井氏と結んで布施山城で蜂起し、主家である六角氏に反旗を翻した。六角義賢(承禎)・義治父子は観音寺城から退去し、甲賀へと逃れた。六角父子は被官・蒲生氏の調停によって観音寺城に復帰したが、被官らが起草した一定の当主の権限を制限される六角氏式目を承認せざるを得なくなった。
布施山城は永禄11年、織田信長の軍により攻撃され、落城したともいわれるが実際のところは定かではない。

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山麓の布施公園から見る布施山城

山麓の布施公園は、平日にもかかわらず多くの人が運動のために利用していた。登城口はその布施公園のため池脇にある。
布施山城が築かれる布施山は標高240m、比高は120m程を測る。ひと際高く目立つ山様で、山上の主郭までたどりつくまでは比高差以上の肉体的疲労を感じた。

 

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山腹の平内屋敷

登山道を10分ほど歩くと、やがて上写真の平内屋敷と呼ばれる広い削平地に至る。
ここは、城を管理するものの屋敷であったのかもしれない。なお城主である平時の布施三河守家居館は布施町内の公民館付近にあったという。

古墳を利用して築かれた山上の城郭

 

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布施山城 概略図

布施山城は、古墳時代中期に作られた布施山山頂の前方後円墳を利用して築かれている。
後円部が主曲輪で前方部を二曲輪(副曲輪)とした曲輪配置である。西側の尾根筋は侵入者の拡散を防ぐため尾根筋を竪堀で隘路とし、南西は畝状空堀群で緩斜面を潰している。

 

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写真位置① Ⅱ曲輪への虎口

平内屋敷を経て20分ほど遊歩道を歩くと虎口①が見えてくる。虎口の前面はテラス状の郭となっている。

 

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写真位置② Ⅱ曲輪(副曲輪)

虎口①より内部に入ったⅡ曲輪(副曲輪)②である。南側は主曲輪④となり、残る三方を土塁が囲んでいる。

 

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写真位置③ 主曲輪への虎口

Ⅱ曲輪(副曲輪)②から主曲輪④への出入り口、虎口③である。観音寺城にもみられる埋門形式であったとされ、それに使用していたと思われる巨石が散乱する。

 

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写真位置④ 主曲輪

後円墳を利用して築かれ、周囲を土塁が囲む。

 

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写真位置⑤ 主曲輪を囲む土塁

高さは50㎝~1.5m前後で北東と南西に虎口を開口させる。

 

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写真位置⑥ 畝状空堀

主曲輪④南西の虎口を出ると、緩斜面が広がる。その下にさらに降りていくと畝状空堀群⑥を確認することができる。写真ではわかりにくいので、竪堀部分を赤く着色した。
布施山城から下山した筆者は、次の訪問先である観音寺城の支城・佐生城へと向かった。

第Ⅰ章 湖東編② 井元城

近年見つかった城郭遺構

前項の大森城に続いて訪れたのが、東近江市妹町に位置する井元城である。
この城が発見されたのは1980年代と比較的新しい。それまでは伝承もなく、ここが城であるという認識は全くなかったという。

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井元城 概略図

織豊系の技術を用いる

縄張りは、周囲を土塁と空堀で囲んだ主曲輪に、馬出ⅠⅡを連続させて、重(かさ)ね馬出を形成している。さらにその外側に大規模な兵の駐屯地を構えるというもので、織豊系(織田系)の技術を用いたものと考えられる。
縄張や当時の歴史的環境から、元亀4(1573)年4月、鯰江城に六角義治が籠城した際に織田方がそれを攻めるために築いた付城であると言われる。

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写真位置① 春日神

井元城は、上写真の春日神社西側に遺構を残す。当地は奈良興福寺の荘園である鯰江荘に属しており、奈良春日大社分祀して大同4年(809)に社殿が創建された。
春日神社には創建以来、数多くの文書が残されていたが、戦国期の兵火によって一部を除き失われてしまったという。

 

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写真位置② 春日神社から井元城へ登る道

井元城へは、春日神社西側に主曲輪の切岸を削るように道が作られている。

遺構を破壊するように付けられていることから考えて、当時からのものではないと推察される。

 

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写真位置③ 主曲輪を囲む空堀

春日神社西側の道を登りきると、主曲輪背後の空堀に入る。
堆積物によって埋もれて、現状の深さは約1.5m前後となっているが、主曲輪周辺が最も明瞭に遺構を残している。

 

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写真位置④ 主曲輪

周囲は低い土塁に囲まれ、北東部分を開口して虎口としている。
四方を土塁に囲まれている上に、後述する重ね馬出しで出入り口である虎口を厳重に防御していることからも、大将格のものが居た場所と考えられる。
井元城は在地系の城郭のように長期にわたる使用を目的としたものではなく、鯰江城攻めの際にのみ使用した臨時的な城(陣城)であると思われる。

 

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写真位置⑤ 馬出Ⅰ

低いながらもコの字状に土塁が築かれている。前方は空堀となって、北と南側に土塁部が開口している。ただし南側は土塁も空堀も痕跡程度に残るばかりとなり、後世に土塁が削られて、堀を埋めてしまった可能性が高い。写真位置⑥馬出Ⅱへの開口部は北側のみで、築城当時は南側の土塁と空堀は主郭の空堀と連結されて封鎖されいたのではないだろうか。つまりは出入り口は一か所に限定されていたものと考えられる。

 

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写真位置⑥ 馬出Ⅱ

土塁は風化が激しく痕跡程度で、前面の堀も明瞭ではない。
ただし痕跡をたどれば、コの字状に形成されていたことがわかる。
主曲輪への通路に重ね馬出ⅠⅡを用いた理由は、侵入者に対して横矢をかけれることと、さらには3つの城門を配置することができたためと考えられる。これらは侵入者の攻撃スピードを大幅に削ぐことも目的のひとつであったと推察される。

 

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写真位置⑦ 削平地の土塁

部分的に確認できる場所と痕跡程度しか残らない部分がある。
北側はわずかに空堀の痕跡が確認できる。

 

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写真位置⑧ 削平地

最も大きな削平地で、大部分の兵はここに展開していたのではないだろうか。
井元城が1980年代まで城として認識されなかったのは伝承が残されなかったこと、あるいは痕跡程度と認識しずらい遺構が多かったためであろうか。
ともかくも、筆者は足早に次の訪城先へと急ぐことにした。

第Ⅰ章 湖東編① 大森城

湖東方面へ

湖国の城巡りで、まず最初にピックアップしたのは湖東方面である。
近江守護の六角氏本拠である観音寺城に近く、その被官の城が多くみられるのが特徴である。
その中でも最初に訪れたのが、六角氏被官の布施淡路守の城と伝えられる大森城である。近江布施氏は布施(東近江市・布施町)を領していた三河守家と大森(東近江市大森町)を領していた淡路守家がある。従来は後に紹介する布施山城の三河守家が本家筋であったという。

大森・布施氏

永禄6年(1563)、当主・六角義治は有力被官である後藤賢豊を暗殺した。当主父子、義賢・義治は逆に被官の反乱を招いて観音寺城を追い出された。(観音寺騒動)
やがて当主父子は被官と和解し観音寺城に復帰することになるが、被官が起草した六角氏式目という一定の当主の権限を制約される分国法を承認させられた。
その六角氏式目には淡路守系の布施淡路守公雄が署名しており、さらに観音寺城には布施淡路丸という屋敷跡があることからも、永禄年間には三河守家よりも淡路守家が勢力を増していたものと考えられている。

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大森城現地案内板の福永清治氏による縄張り図(2018年3月28日撮影)

早朝に到着した大森城

2018年3月28日早朝に自宅を出発し、高速道路利用で湖東方面の八日市に到着した。
時間を見ると、まだ午前6時前後であり、本来は次に向かう井元城を先に訪れる予定であったが、まだ日の出の時間にもなっておらず遠く薄暗いため、ある程度登ることで日の出まで時間を稼げる大森城へと向かうことにした。
大森城は東近江市大森町の大森神社背後の比高約70mの丘陵上に築かれている。大森神社付近には、登城口への案内板が設置されている。

 

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写真位置①の土橋状に削られた尾根

登城口から遊歩道を登り尾根筋に到達すると案内標識が出ており、それに従い東へと歩いて行った。途中ピークに到達するが城郭遺構らしきものはなく、さらに進むと上写真の土橋状のものが見えてきた。それを渡りきると大森城が位置する丘陵に到達する。

すり鉢状に丘陵を掘削加工した城郭

大森城は卵状の丘陵中央をすり鉢状に掘削して、周囲に土塁と高低差を設けた主曲輪群を配置した縄張りである。遺構の各所には説明版と地元の方の手製の木製人形が立てられている。

 

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写真位置② 西側虎口

上写真は、西側の虎口で城外からは一折れして入る構造になっている。
虎口より内部に入ると、段差を設けて区画した広い削平地が広がっていた。

 

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写真位置③ 登り土橋

広い削平地の南側は上写真の登り土橋を用いて、高低差を用いて築いた主曲輪部へと連絡する。

 

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写真位置④ 食い違い虎口

上段に位置する主曲輪部は本丸と二の曲輪で構成されている。登り土塁から二の曲輪に入る際は食い違い状の虎口を用いて、敵の突進力を削ぐ工夫がされている。

 

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写真位置⑤ 本丸

上写真は、本丸である。北側を除く周囲を土塁で囲み、西側の土塁は虎口を開口させる。

 

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写真位置⑥ 南西の尾根筋

南西の土塁は先端が、やや突き出している。その先は東側の尾根へと続くが、堀切等で遮断されている形跡はない。城を攻められ、支えきれなくなった場合の城外への脱出ルートとして、この尾根筋を確保していたためであろう。

 

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写真位置⑦ 分厚く高い土塁

上写真は大森城のほぼ北半分を囲んでいる土塁である。本丸の北側からは、大森城の周囲を囲む土塁の上を歩くことができる。

 

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写真位置⑧ 土塁上に築かれた櫓台

土塁上の随所には、櫓台とみられる高まりがある。

 

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写真位置⑨ すり鉢状に掘削され削平された曲輪

上写真は土塁上より、大森城中央の曲輪を見たものである。すり鉢状に掘削され築かれていることがわかる。大森城の見学を終え、次の訪問先である井元城へと向かった。

 

湖国の城をめぐる 序章

未訪の湖国の城を目指して

2018年3月末から4月末まで内の4日間、湖国滋賀の城巡りに行った。

筆者は近年、丹波を中心に京都・兵庫・岡山の城郭に訪れ、縄張り図の作成等を行う活動を行っている。滋賀県については、安土城をはじめ、特に有名な城郭や甲賀地方の土塁囲みの城郭には訪れたことがある。しかし、六角氏・浅井氏や、さらには織豊系の城郭など、まだ見ぬ城も多いのが現状である。

普段活動している地域と湖国の城郭は、どのような差異があるのか、また共通点が見いだせるのかが知りたかった。

ネットや書籍で写真や説明は見られる時代であるが、百見は一考にしかずということで、湖国滋賀県の城郭に訪れることになった。

同行者と語り合いながらの城巡り

滋賀県では計4日間の活動になったが、内2日間は同行者との城巡りとなった。

二人とも、当ブログのブロ友であり、また長い付き合いの方であるHさんとTさんである。ともに筆者が所属するオフ会グループの戦国倶楽部の仲間である。

 

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各章で巡った城の位置図

さて、今回は湖東・湖南・湖西・湖北と4つの地方を各章に分け湖国の城巡りの成果をお届けしたい。なお4つ地方の呼称は筆者が便宜的に付けたものである。
第Ⅰ章の次稿は湖東の城へと向かってみたい。