第Ⅱ章 湖南編⑤ 秀次館

八幡山城の平時の居館、秀次館跡へ

八幡山ロープウェーを降り立った筆者らは、山麓の平時の居館、秀次館に向かった。
筆者は山上の城には幾度か訪れたことがあるが、居館跡に訪れるのは初めてであった。そのため、既に訪れたことのある女史に先導をお願いした。
秀次館は山上・八幡山城の本丸と西の丸の間の谷筋を降った場所に築かれている。
当時の織豊系城郭は居住部と防御部を一体化される傾向であったのに対して、それらが独立して存在していることが指摘される。
築城の始まる天正13年(1585)の前年、天正12年(1584)3月から11月にかけて羽柴秀吉は、徳川家康織田信雄連合軍と合戦をおこなっている(小牧長久手の戦い)。
秀次が近江に封じられた際に付けられた宿老、堀尾・中村・山内らは佐和山城水口岡山城長浜城等の拠点城郭に配置されており、明らかに東国の家康を意識した城づくりであったことがわかる。
立地的な条件もあったかもしれないが、居住部と防御部が独立した、より強力な城を築いたことは時代背景が影響しているのではないだろうか。
家康が秀吉に対して正式に臣従を示したのは、天正16年(1586)10月のことである。

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八幡公園入口

女史に先導いただき、山麓のロープウェイ駅より西に5分ほど歩くと八幡公園の入り口が見えてきた。
元は公園内も居館跡の一部であったが、図書館や広場、あずま屋なとが作られ、今では市民の憩いの場として整備されている。

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八幡公園前の案内板

入り口には居館跡の概略を示した案内板があった。(下記の写真位置を加筆)

 

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写真位置①の豊臣秀次銅像

公園中央には城主であった豊臣秀次銅像が建てられている。
天正18年(1590)秀吉は関東の北条氏を滅ぼし天下統一を果たした。秀次は北条攻めで戦功を挙げ、尾張清州に加増転封された。翌天正19年(1592)には秀吉より関白の座を譲られて、聚楽第を京での邸宅としている。文禄4年(1595)7月、秀吉より謀反の嫌疑をかけられた秀次は高野山に送られ、山内の青巌寺(現:金剛峯寺)の柳の間で切腹した。
切腹の前後には、秀次の家臣や関係の深かった大名らが処罰され、翌8月には京都三条河原で秀次の妻子らが処刑された。その処刑や、その後の仕打ちは惨いものであったと伝えられる。
また、秀吉は物的にも秀次の存在した痕跡を消そえうとした。京での邸宅としていた聚楽第や過去に居城としていた八幡山城及び秀次館を破却したのである。

秀次館の石垣

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写真位置②の石垣

公園を通り抜け、大手道に出て秀次居館跡を見学することにした。
大手道の両サイドには、段状に家臣の屋敷跡であったと思われる削平地が築かれている。
それらの多くは竹林の中にあるが、大手道からもその様子を伺うことができた。
区画するための切岸部には石垣が用いられている。

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写真位置③の削平地と石垣

秀次館の中で最も綺麗に整備されている場所である。
八幡山城および秀次館は瓦葺の建物が建てられていたと推定される。
使用される瓦は山上の城の方が古式で、居館部は新しい様式であった(山上部はコビキA、居館部はB)。さらに居館部からは金箔瓦も検出されている。

秀次の屋敷跡へ

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写真位置④ 屋敷跡の枡形虎口の石垣

さらに登ると、巨大な食い違い状の内枡形虎口が見えてきた。
平時の居館であるとはいえ、出入り口は極めて軍事性の高いつくりとなっている。

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写真位置⑤ 秀次の屋敷跡

最上部は整備こそされていないが、広大な面積となっている。
ここが秀次の屋敷跡と、推定される。
山上の八幡山城及び居館部は文禄4年(1595)に破却された後、再び城郭および居館として使用されることはなかった。

八幡山城および秀次館の破却

城を破壊する「破城」という行為は、石垣上部や隅部を崩したり虎口を破壊することが多い。
例えば、筆者の研究のフィールドである丹波で秀吉に関わる時代に破城された城を例にとれば、黒井城、周山城等がそれにあたるだろう。
しかし、山上の八幡山城を見学した限り、それらの傾向は、あまり見られなかった。そう考えると建物の破壊や持ち出しといった軽度のものにとどまったと思えなくもない。

近年、秀次の屋敷跡と推定される最上部で発掘調査が実施され、それを覆すような成果が見られた。
建物破却後に砕いた瓦を屋敷跡の地表面に並べて固い粘土を用いて覆っていたことが明らかとなったのである。館跡の再利用はおろか、秀次の生活の痕跡を閉じ込めるような行為である。

秀吉をそこまで憎悪の念に駆らせた理由とは何だったのだろうか。
史料から読み解く歴史研究も進んでいる。しかし彼の心の内までは永遠に知るすべはないだろう。

城・館を含めて5か所を巡った湖南編

湖国の城を巡る 第Ⅱ章 湖南編」では多喜山城から、この秀次館まで計5か所を巡った。
同行していただいた女史には各城の先導を頂くなど、道中大変お世話になった。

この場を借りて厚くお礼申し上げます。
また、機会を見つけ色々な城に、ご一緒できればと思う次第である。

 「湖国の城を巡る 第Ⅱ章 湖南編」 完


湖国の城を巡る 第Ⅱ章 湖南編・参考書籍

平凡社・編(1997)  『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』平凡社
野洲町立歴史民俗資料館・編(1998)『国宝大笹原神社の歴史と美術』野洲町立歴史民俗資料館
滋賀県教育委員会近江八幡市教育委員会・編(2011)『埋蔵文化財活用ブックレット12(近江の城郭7)八幡山城跡』 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
城郭談話会・編(2014)『図解・近畿の城郭Ⅰ』中井均・監 戎光祥出版
新谷和之(2018)『戦国期六角氏権力と地域社会』思文閣出版
中井均・編(2019)『近江の山城を歩く』サンライズ出版

 

第Ⅱ章 湖南編④ 八幡山城

豊臣秀次の城、八幡山城

2018年4月5日、前稿の古城山城をあとにした筆者らは時間が押しているため、急ぎ八幡山城へと向かった。八幡山城山麓に到着した時には、すでに16時をすぎていた。八幡山ロープウェーで山上の城に向かうことにしたが、下り最終のロープウェーの時間を考えれば山上での見学時間は限られていた。
八幡山城近江八幡市八幡山(鶴翼山)山頂を中心に築かれた近世城郭である。
山麓からの比高差は180mを測るが、上述した八幡山ロープウェーが山上まで9:00から17:00までの間、毎時15分間隔で運行している。

(登りは16時30分が最終。なお現在2020年5月31日までは新型コロナ対策のため運航休止)

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八幡山城案内板

山頂駅に降り立つと、上看板が設置されていた。山頂駅から八幡山城各所への目安の時間が書かれている。

八幡山城と八幡堀

天正13年(1585)羽柴秀吉織田信長の居城、安土城を廃城とした。近江に甥の羽柴秀次に宿老領を含めて43万石を与え、安土城西方に位置する八幡山に新城を築かせ城主とした。
安土の城下町は八幡山の南方へと移転させて、新たに八幡山城の城下町を形成した。その際、城下に琵琶湖と連結させた水堀、八幡堀を開削している。八幡堀は城の防御としての機能とともに運河としても利用され、湖上水運によって物資の運搬が円滑になり、城下町の発展に大きく寄与した。さらに堀で区画することで居住区を分けるのにも利用された。
余談にはなるが20年ほど前に筆者は、八幡堀界隈の和食店で昼食をとった。八幡堀は陸上交通の発達した昭和の中頃には廃れていたが、保存整備運動が盛んになった近年では観光名所となっている。
和食店は堀に面した蔵を改築したような佇まいで、昔ながらの風情が漂っていた。
天正18年(1590)秀次は尾張清州に転封となり、代わって京極高次が2万8千石で入城。文禄4年(1595)秀次が高野山で自害した後、京極高次は大津城に移り、八幡山城は破却された。この秀次の自害と八幡山城等の破却については次稿の秀次館でもふれてみたい。

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村雲御所瑞龍寺門跡の碑

筆者らは残された見学時間の関係から、まずは本丸に向かうことにした。途中、二の丸から本丸に入る際に「村雲御所瑞龍寺門跡」の碑があった。

村雲御所瑞龍寺門跡

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本丸に位置する瑞龍寺

現在、八幡山城の本丸には日蓮宗唯一の門跡寺院である瑞龍寺がある。
瑞龍寺は文禄5年(1596)に秀次らの菩提を弔うために、その母である日秀尼が後陽成天皇より嵯峨の村雲に寺地と寺号、さらに寺領1000石を与えられ、建立した。
のちに勅願所ともなり、別名を村雲御所と言われる。
江戸時代には京都の嵯峨から西陣(今出川堀川)に移転し、昭和36年(1961)に当地へ移された。
そのため本丸部は城郭としての佇まいは残してはいない。
移築に先だった発掘調査では、建物礎石、瓦、土器が検出されたという。今は残されないが本丸には天守台があり、建てられた天守は大津城に移築されたという。
その天守は大津城が廃城になった際、さらに彦根城へと移築されたという。

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本丸内枡形虎口

本丸の出入り口は織豊系城郭らしく内枡形虎口が残されている。

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本丸虎口の石垣

本丸虎口部の石垣である。隅部は算木積みとなっており、天正年間中頃のものである。
続いて筆者らは二の丸から北の丸方向へと向かうことにした。

八幡山城の遺構を見て回る

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本丸の石垣

北の丸に向かう通路を歩くと左手に本丸の石垣が見られる。
隅部は方形に加工した石材が用いられるのに対し、隅角部以外の築石部は自然石や不揃いな割石で構成されている。

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北の丸

長方形の形状で、北側には堀切が穿たれ尾根筋にハイキングコースが続く。それを辿ると六角氏の中世城郭、北の庄城に至るという。

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西の丸


恋人の聖地プロジェクトということで、城内各所に様々なモニュメントが設置されている。特に、この西の丸のモニュメントは目立つように作られていた。
筆者は当城に訪れるのは3度目であるが以前にはこのようなものはなかった。
時が変われば城も変わるということだが、これには賛否両論がありそうである。
この西の丸から続く、南の尾根には出丸が築かれているが今回は時間の都合で見学できなかった。

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西の丸からの遠望

近江富士が遠くに見える。

さて下りロープウェー最終の時間までは、あと10分もない。
筆者らは急ぎロープウェーに飛び乗って山麓へと降り、秀次館へと向かった。

第Ⅱ章 湖南編③ 古城山城

小堤城山城の尾根続きにある古城山城へ

前稿、小堤城山城の南東尾根の曲輪群から続く尾根道を歩いて、古城山へと向かった。
途中、道は土橋状に細くなり堀切状の遺構が見えた。
さらに進むとやがて城内への出入り口である虎口が見え、その傍らには説明版が設置されていた。

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城内に入る虎口

当城は正安2年(1300)、もしくは応永8年(1401)に六角氏による築城と伝えられるが、詳細な歴史は定かではない。(本稿では呼称を古城山城として統一する)

古城山城と桜本坊

六角氏は被官の蒲生郡野洲郡の郡奉行である馬淵氏に守らせたという。
馬淵氏は16世紀中頃には何らかの影響で勢力が衰え、被官の永原氏が野洲郡で勢力を拡大した。
永原氏は馬淵氏を介さず直接、近江守護の六角氏の被官となって、尾根続きで古城山北東に位置する城山に小堤城山城を築き本拠とした。
小堤城山城との間を完全に遮断されていない古城山城は、以降出城として機能したと推察される。

また、古城山には応永年間(1394〜1428)に北東に位置する岩蔵寺の坊舎、桜本坊が造られた。
明治時代に至って、桜本坊神仏分離令によって神道化され、呼称を桜本社と変更され明治27年には瓦葺の社殿が建立された。
当城の城域の中にはその当時のものである瓦を散見することができる。

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主要部を囲む土塁

当城は南北に長いコの字状の尾根筋に曲輪を造成した縄張りで、北側の山頂部が主要部である。虎口より内部に入ってみると、主要部は土塁に囲まれていることがわかった。
この土塁は、軍事的な意味とともに、立地が山頂部ということで風よけとしても考えられたのではないだろうか。

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城内で一番広い曲輪

この曲輪は城内で最も広い削平地である。中央には、桜本社の痕跡と思われる石積みと瓦が残されている。
上写真、向かって左側の高い切岸上は1段高くなって曲輪が造成されている。
その曲輪の端部は上述した主要部を囲む土塁となっており土塁の一部を外側に張り出させ、筆者らが入ってきた虎口からの侵入者を牽制している。
これを見れば、当城が軍事的な施設であることが頷よう。

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桜本池

当城の中心部には溜池の痕跡とも思える水たまりがある。
桜本池と呼ばれ、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられている。
広い居住スペースと水源を伴っており、一定の生活を営むことができたのではないだろうか。

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北東部谷筋

城域の北東部谷筋である。中央部は土塁の仕切りに開口部を設けた虎口状の遺構があった。当城は南西部が一番高くなり、この谷筋は雨水の排出先としても考えられたのであろう。

古城山城とは何だったのか

今残る遺構と城主・馬淵氏の動向を踏まえて当城を考えてみたい。
馬淵氏は、南北朝時代以降、六角氏の野洲郡の郡奉行として郡内の権益を獲得していった。
永徳3年(1383)に野洲郡の散所を押領しているのが、その一例である。
六角氏による築城との伝承があるが、実質的に郡内の支配は馬淵氏によって担われていたと考えて良いだろう。
当城の築城の夫役は同郡内から徴発されたはずで、馬淵氏が築城に大きく関わっていたことだろう。
古城山北東に位置する天台宗岩蔵寺は応永年間(1394~1428)に馬淵氏の祈願寺として再興され、二百石の田地を寄進され六坊が造営されたという。
その六坊の一つが、当城にあったとされる桜本坊である。岩蔵寺は馬淵氏と密接な関係を持ち、坊舎と城郭が併存していた可能性も否定できない。
ただ大土塁、横矢の張り出しなど現在残る軍事的な遺構は馬淵氏が築いたものではなく、小堤城山城の出城となった時に改修されたものと考えられる。
桜本坊は馬淵氏が没落し、小堤城山城が廃された後も存続していたと考えられ、当城はその際の改変も受けていると思われる。
ふと、スマートフォンで時間を見ると、すでに15時であった。筆者らは次の訪城先である、近江八幡山城へと急ぐことにした。

第Ⅱ章 湖南編② 小堤城山城 後編

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小堤城山城 写真位置

(踏査作図・福永清治氏 環境基本計画 自然山部会)

 

前稿写真位置⑦の曲輪から北東の支尾根に展開する曲輪へと向かうこととした。

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写真位置⑧の堀切

前稿写真位置⑦との間は堀切で遮断されている。隣の西側の尾根も同様であり支尾根の曲輪が落とされても主要部との間は隔絶させておくという意図なのであろう。

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写真位置⑨の曲輪

主要部から堀切で隔てられた、これら支尾根の曲輪への往来は当時は木橋を用いたのであろう。

二段で構成されたこの曲輪には、山躑躅が綺麗に咲いていた。
2018年は桜が花を咲かせていた時期は短かく、そして夏は酷暑であった。
翌2019年は夏の訪れが遅く、桜の花が比較的長く咲き続けて筆者の目を楽しませてくれた。
2020年、今年の春は新型コロナウィルスが猛威を奮っている。経済は混沌とするだろうし、生活様式も今までと大きく変わってくるかもしれない。今は、この先に待ち受ける未来の行方を知るすべもない。

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写真位置⑩の石垣

西側斜面には上部は欠落しているが3mに近い高石垣が残されていた。 

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写真位置⑪の曲輪

次に北西尾根の曲輪へと向かった。前述したとおり、ここも北東尾根同様に前稿の曲輪⑦との間は堀切で遮断されている。曲輪内はきれいに整備され、ちょうど腰を掛けることのできる切株があったので座って軽く食事を摂った。時間を見ると午後2時前で、当城の見学すべき所もまだ山上曲輪群などが残っており、はやめに切り上げて先を急ぐことにした。なお、この曲輪の北東斜面には当城でもっとも状態の良い石垣が残されている。

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写真位置⑫の石垣

上写真がその石垣で、石垣見学のために遊歩道が設けられている。隅部は算木積みが意識され大きめの石が使用されている。

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写真位置⑬の曲輪

 筆者らは城山山頂へと向かうことにした。山頂部から伸びる東西の尾根には腰郭が連続している。造成される切岸は低いものであるが、部分的に石積みを使用していた痕跡が見うけられる。

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写真位置⑭ 城山山頂(主郭か)

城山山頂は山麓からの比高は180mを測る。現地案内板では主郭(本丸)と表記されていないが、当城の最も高い位置にあり戦略的にも指揮所としての意味合いも大きいと考えられることから、ここが本来の主郭(本丸)に相当するのではないだろうか。

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写真位置⑮の石垣

山頂部の写真位置⑭の南東にある石垣である。
隅部は算木積みが意識されつつあり、使用される石はやや小ぶりである。
割って薄く加工したであろうと思われる石が特徴的である。

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写真位置⑯の曲輪

当城の南東の尾根を辿ると古城山に至る。そこには岩倉城とも呼ばれる城がある。
その古城山との境目でもある鞍部に向けては、4段ほどの腰曲輪がある。いずれも削平状態は悪く、なかには剥き出しの岩が切岸の役目を果たしている。それが上写真である。

筆者らは道中の案内に従い、古城山へと向かった。

第Ⅱ章 湖南編② 小堤城山城 前編

織豊期以前の石垣が明瞭に残される小堤城山城へ

2018年4月5日、多喜山城に続いて野洲市小堤にある小堤城山城に訪れた。

観音寺城同様に織豊期以前の石垣が明瞭に残されている城として知られ、「第Ⅱ章 湖南編」のメインとして訪れたいと思っていた。
林道終点のゲートより登城口まで徒歩で向かった。同行していただいた女史が、当城に初めて訪れるのにも関わらず先導していただいたおかげで登城口までたどりつけた。
ゲートより登城口までは約20分程であったが、中々わかりづらく、筆者だけで訪れていたならば諦めてほかの城へと行ってしまったかもしれない。

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小堤城山城 登城口

城主・永原氏

当城は、滋賀県野洲市小堤の城山(標高286m・比高180m)に築かれ、城主は永原氏を伝える。
永原氏は、野洲郡を拠点とした在地国人で、15世紀には六角氏の野洲郡の郡奉行であった馬淵氏の被官として行動していた。16世紀中頃には何らかの影響で勢力を減衰させた馬淵氏との被官関係を解消して、六角氏と直接被官関係を結んでいる。これは永原氏の勢力拡大とともに馬淵氏からの独立を指向していた結果とみてよいだろう。また、室町幕府への忠節を尽くし、幕府からも所領の安堵を受け六角氏と足利幕府との二重の主従性をも保っていた。中央権門との繋がりあいがあったことも知られ、野洲郡の本拠近くにあった京都相国寺の寺領・玉造荘の運営についても相国寺に対し協力をしている。

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小堤城山城 写真位置

上図は小堤城山城主郭に設置された案内図である。
(踏査作図・福永清治氏 環境基本計画 自然山部会)
北側から歩いて登ったため、わかりやすいように南北を逆転し、モノクロ撮影し下記写真位置を赤字にて加筆している。

きわめて規模の大きな城で、当城の縄張には、石垣の構築など六角氏の観音寺城との共通性が見られる。
そのため、六角氏の支持のもとに築かれた城郭であるとも指摘されている。

城跡コース(遊歩道)を進む

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写真位置①の腰曲輪群

登城口から城跡ルートとされる遊歩道を進むと、両サイドに規模の大きな腰郭が連続している。
これらの腰郭群に牽制・監視されながら主郭方向に進んでいくことになり、
この遊歩道は当時からのルートを踏襲しているようである。

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写真位置②の通路の石垣

5分ほど歩くと、通路の両サイドの崩落を防止するための石垣がある。
観音寺城同様に大きな石を使用しているのも当城の特徴の一つである。

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写真位置③の二段に積まれた石垣

高石垣とせず、二段に分けて積まれている。下段の右側の石をよく見ると矢穴を用いて割っているものが見える。石を分割する矢穴技法は六角氏の観音寺城と同様のもので、「観音寺城技法」とも呼ばれ、近世城郭には見られない独自の技法である。



中心部である主郭部へ

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写真位置④の曲輪

谷部に設けられた広い曲輪で、上位の三方の曲輪から見下ろされる位置にある。
この曲輪から上位の曲輪に向かうには切岸に付けられた石段を登っていくことになる。
現地の案内板では主郭とされているが、民衆の争論解決に使われるような大きな広場的な場所に見え、城主と対面する儀礼的な意味を持つ曲輪だったのではないてだろうか。

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写真位置⑤の石段

一見すると崩れた石垣のように見えるが、近づいてみると階段状に組まれていることがわかる。一直線上に上位の曲輪⑦の入り口、枡形虎口⑥へとつながる。
このような石段の使い方は観音寺城の本丸へと続く石段を模倣しているようにも見える。

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写真位置⑥の枡形虎口

土砂の流入や堆積でやや埋まっているが、四角い形状の枡形虎口であったことが伺える。
石材が散乱しており当時は石組みされた虎口だったのであろう。
この虎口からは上写真位置④の曲輪を見下ろすことができる。
石段上から見降ろすというものからは、身分差の関係性が考えられるのではないだろうか。

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写真位置⑦の曲輪

南北に長い長方形状の曲輪で、北側に櫓台状の高まりがある。この曲輪は南の山頂部曲輪群および北西・北東尾根筋の曲輪群への分岐点となっている。


次稿では明瞭な石垣遺構を残す曲輪へと向かっていきたい。

 

執筆者よりお知らせ

第Ⅱ章 湖南編①の多喜山城の記事が何らかの事情で消えてしまいました。

多喜山城の原稿が今は手元にあらず、今後執筆すべき城郭が多くあるため

「第Ⅱ章 湖南編①多喜山城」の再掲は予定しておりません。あしからずご了承下さい。

第Ⅰ章 湖東編⑥ 宇佐山城

織豊系城郭の宇佐山城へ

2018年3月28日、瓶割山城へ訪れた筆者は次いで、滋賀県大津市の宇佐山城に向かった。本章は湖東編と題するが、宇佐山城は実際には湖西に位置する城である。

当城を本章に組み入れた理由は、当日訪城のラストでかつメインとして、すえたいという筆者の個人的思いがあったためである。瓶割山城麓から宇佐山城への登城口がある宇佐八幡宮までは、もっとも早く移動できるであろう名神高速道路を利用して約50Kmの距離がある。瓶割山城麓を出発したのは午後3時30分を過ぎており、登城口がある宇佐八幡宮に到着したころには、すでに夕日が傾きかけていた。

近江と京を往来する道の監視のために森可成が築く

宇佐山城は永禄13年(1570)に織田信長の家臣、森可成が信長の命を受け築いた。近江国・志賀の地に築かれたことから、『多門院日記』をはじめとする当時の記録には、「志賀乃城」または「志賀要害」として登場する。当時、近江と京を結ぶ主要道は、山中越(現・滋賀県道30号線付近)と逢坂越(現・国道1号線付近)の二道があった。森可成は、この二道を閉鎖して、新たに宇佐山城麓を通過する新道を開いた。すなわち宇佐山城が築かれた当初の目的は、京へと往来する唯一の道を押さえ、監視するものであった。やがて城主の変遷とともに、城の運用方法も変わっていくことになる。

志賀の陣 朝倉・浅井方が襲来し森可成は戦うも討死

元亀元年(1570)7月、三好三人衆と、それに呼応した石山本願寺が摂津で蜂起した。織田信長は摂津へと出陣し、その隙をついて姉川の戦い以来、なりを潜めていた浅井・朝倉連合軍が湖西方面へと兵を動かした。浅井長政は琵琶湖を北西に迂回して南進し、朝倉義景は若狭口より南下した。両軍は今津で合流し、9月16日、浅井・朝倉連合軍3万と僅か千の兵を率いた森可成織田信治の軍が坂本で激突した。初戦は織田方が勇戦したが、19日には浅井・朝倉方は二方向に分かれて進撃し、翌20日には激闘の末、森可成織田信治らは討ち死にした。勢いに乗った浅井・朝倉連合軍は宇佐山城の端城まで攻め上がってきたが、城兵は城を固く守り撃退している。

信長が宇佐山城に入城

23日には、急報を聞いた信長が大坂の陣を引き払って京を経由し近江へと向かった。浅井・朝倉連合軍は比叡山系の青山・壺笠山に立てこもり、信長は宇佐山城を本陣として包囲した。両軍の対陣は12月まで続き、同14日に朝廷からの講和勧告である綸旨によって和議が成立して両軍は兵を引いた。

宇佐山城は明智光秀の本拠に

志賀の地は明智光秀に与えられ、元亀3年(1572)に坂本城が築かれるまで宇佐山城を本拠としていたという。坂本城が築かれた後、ほどなく宇佐山城は廃城になったと考えられる。

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宇佐山城 鳥観図

急ぎ宇佐山城に登城

宇佐山城は比叡山系の宇佐山(標高336m)に築かれ、瓶割山城より到着した筆者は、山腹の宇佐八幡宮から遊歩道を急いで登った。

 

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宇佐山八幡宮から続く遊歩道

時間はすでに午後4時30分を過ぎており、すでに周囲は薄暗かった。

 

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写真位置①の石垣

遊歩道を歩くこと20分、左手に石垣が見えてきた。遊歩道から外れて、やや斜面を登って近づいてみると、高さは約1.5m前後で端部は崩されているように見える。破城の痕跡であろうか。

宇佐山城の本城部を見学

宇佐山城は、最高所に主郭Ⅰを配し、その南側にⅡ郭、主郭Ⅰ郭の北東に堀切を隔てて、Ⅲ郭を配置した縄張りである。なお、Ⅲ郭の北東尾根続きにも城郭遺構があるという。この北東尾根続きの城郭遺構こそが元亀元年に森可成が討ち死にした後、浅井・朝倉連合軍が攻め上がってきた端城の跡だという。今回の訪城では、時間の都合で本城部のみの見学に留まり、見学することができなかった。またの楽しみにしたい。

メインルート沿いに築かれていた石垣

遊歩道は、山麓から城址直近までは一部当時の城道(大手道)を踏襲している可能性が考えられる。遊歩道はこのまま堀切(写真位置②)へとつながるが、推定される本来のメインルート(大手道)としての城道は石垣前(写真位置①)より南西へと伸びて曲輪Ⅱの南にある腰曲輪群を通過して主郭Ⅰへと向かったようである。現在、宇佐山城に見られる立派な石垣は、すべて推定される城道沿いに築かれている。

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写真位置② 堀切

主郭ⅠとⅢ郭の間を遮断する堀切である。だが一見すると幅の広い虎口のように見える。写真位置①の石垣から堀切へと至る遊歩道は従来から城道とはみなされてこなかった。しかし主郭ⅠとⅢ郭の往来の方法がないこと、さらに、この堀切の南側にある横堀状遺構の存在を考えれば、Ⅲ郭方面へのルートとしては確立していたと考えるのが自然ではないだろうか。

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写真位置③ 横堀状遺構

内部は堆積物により埋まっているが、横堀を形成する土塁がよくわかる。右側は主郭Ⅰの切岸で、横堀内には石垣に使用していたと思われる石材が散見される。主郭Ⅰの切岸は石垣によって固められていたのであろう。

横堀状遺構は塹壕であった可能性

この横堀状遺構を塹壕と考えれば、主郭ⅠとⅢ郭間の堀切の意味が見えてくる。Ⅰ郭とⅢ郭の間に入った侵入者は両郭から攻撃され、なおかつ塹壕内の守備兵からも狙撃されたことであろう。この堀切内へのルートが存在していないとすれば、Ⅲ郭も横堀状遺構も意味をなさなくなるのである。塹壕内へは主郭ⅠからⅣ郭を通過して入ったと思われ、それらをつなぐ手段としては、有機物である木製の梯子や階段を利用していたと筆者は考える。ゆえに、今はその痕跡を地表面に残さないのであろう。堀切内部から主郭Ⅰの切岸に付けられたコンクリート製の階段を登りきると、主郭Ⅰ内部に入る。

 

放送施設建設に伴う発掘調査が行われた主郭Ⅰ

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写真位置④ 主郭Ⅰ


主郭Ⅰは、くの字状で城内では最も広い面積を有する曲輪で、現在はNHKの中継所が建てられている。昭和43年、放送施設建設に伴う発掘調査が実施され、主郭Ⅰからは瓦や排水遺構・石段等が検出された。織田信長は元亀元年(1570)9月末より約二か月間にわたって宇佐山城を本陣として、朝倉・浅井方と対陣している。同年11月には、公家・山科言継や六角承禎(義賢)らが宇佐山城に訪れ、会所機能を持つ、御殿のような建物で信長と対面したという。また、山麓には家臣が住まう「小屋」が建てられ、宇佐山城は織田家の準本拠としての位置づけとなっていた。宇佐山城の運用法は、森可成在城期とはうってかわっていたようである。

 

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写真位置⑤ 食い違い虎口

主郭Ⅰ郭の南側には食い違いの虎口を通過してⅡ郭へと繋がるが、その食い違い虎口の一部を形成する土塁を主郭Ⅰ側から見たものである。土塁は分厚く、Ⅱ郭側は横堀を用いて切岸を高くする工夫がみられる。

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食い違い虎口 概略図

Ⅰ郭とⅡ郭間の簡単な図を描いてみた。Ⅱ郭から直進した侵入者はⅠ郭の切岸で進路を左に折られ、さらにⅠ郭に入るには右手にもうひと折れすることが要求される。この食い違い虎口は、ひと折れした先の前方は城門で閉ざし、Ⅰ郭の切岸と南側の土塁で閉塞された空間を作って、侵入者に対しては主郭Ⅰ南端部の櫓台から攻撃を行い殲滅する・・という仕組みだったのではないだろうか。

 

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写真位置⑥ Ⅱ郭

Ⅱ郭は長方形に近い形状で、城内第二位の規模を有する。中央部分が有刺鉄線で囲まれており、南側は矢竹が密生していた。

 

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写真位置⑦ 腰曲輪に続く竪土塁状の通路

Ⅱ郭南西には、腰郭に降る登り土塁状の通路がある。それに従って腰郭に降りてみた。

 

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写真位置⑧の腰曲輪

面積は小さいがⅡ郭へ向けての切岸は鋭角で、曲輪内は灌木が繁茂していた。ここからさらにもう二段、腰曲輪が連続しており、降りてみることにした。

 

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写真位置⑨の腰曲輪

これらの腰曲輪は、写真位置①から続く主郭Ⅰへのメインルートの途中にあり、通路を兼ねた曲輪として利用されていた模様である。戦時には兵を駐屯させ、障害物を作って主郭への通路を守ったことであろう。

登城者に見せるための石垣

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写真位置⑩の石垣

写真位置⑨の腰曲輪直下には高さ1.5m前後の石垣が残されている。是非、見逃さずにおきたい遺構の一つである。宇佐山城の石垣は坂本の町に面したのみに見られるものの、現在残る状況から高さ等を推定復元しても山麓から映えるように見える威圧的なものではなかったと考えられる。それらはすべて主郭Ⅰへと向かうメインルート沿いに集中していることから、登城者に対する視覚的な意味合いが大きかったのであろう。

 

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写真位置⑪ Ⅲ郭

主郭Ⅰ北方のⅢ郭へと移動した。この曲輪も規模が大きく、主に兵の駐屯を目的としたのではないだろうか。

 

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写真位置⑫ 石積み

Ⅲ郭の東側の切岸には土留めを目的としたであろう石積みが残されている。

現在残る縄張りについて考察

さて、宇佐山城の本城部を見学してきた。現在残る遺構や縄張りは、いつの時期に完成したかを考えてみたい。

森可成

森可成期には、近江と京を往来する道の監視を第一の目的とし、山上に居住するという考えはなかったであろう。また、山上で会見するような会所的な機能を持つ建物もなかったであろうし、登城者に対する視覚的な意味合いを持つ石垣も必要はなかったと思われる。

織田信長

朝倉・浅井方が来襲したという急報を聞いて出陣先の大坂より急遽もどって宇佐山城に入った信長自身は、長期滞陣になることまでは予測していなかったであろう。信長期の宇佐山城は、長期滞陣になるにつれて、なし崩し的に準本拠的な城へとなっていったのではないだろうか。会所機能をもつ建物が建てられたものの、信長在城した短い期間では現在みられるような石垣を含めた遺構が完成されたとは考え難いのではないだろうか。もしなしえたとすれば信長在城中は城内各所で工事中(普請・作事)が行われていたということになる。対朝倉方の本陣として使用し、六角承禎や使者との会見も宇佐山城で行われていることから、そのような工事がなされていた可能性は低いであろう。

現在残る縄張りは明智光秀によって成立した可能性が高い

元亀元年(1570)12月、朝倉・浅井方と和睦が整い、信長は退城した。信長の在城期間はわずかに2カ月余りにして、宇佐山城は明智光秀に与えられた。光秀は坂本城を築き移るまで、約2年間にわたって本拠とした。光秀期の宇佐山城は、連歌会が催されたり、公家が来訪するなど信長期に存在した施設が引き続き使用されていたと考えられている。また、調略によって味方に引き入れた在地土豪の和田氏の軍勢を城内に駐屯させていることから、城内施設も信長期よりもさらに充実していたと考えられる。登城者に対して印象的に映る石垣がこの段階で築かれた可能性も高いだろう。したがって筆者は、今見られる縄張りが成立した時期は明智光秀の段階であったというのが、もっとも蓋然性が高いのではないかと考える。

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宇佐山城から見る琵琶湖

夕暮れの琵琶湖をながめて

宇佐山城から見る、夕暮れ時の琵琶湖である。2018年3月28日、大森城からスタートして井元城、布施山城、佐生城、瓶割山城、そして宇佐山城へと巡った。織豊系陣城から六角氏が築城に携わった城を経て、最後はまた織豊系城郭へと回帰した?一日となった。中身の濃い一日であったが、まだ湖国の城巡りは、はじまったばかりである。さて、第Ⅱ章からは城友と共に城を巡ることになる。こうして夕日を眺めている筆者には第Ⅱ章以降の展開が予想できるはずもなかった。まずは、ここで湖国の城を巡る 第Ⅰ章 湖東編の筆をおきたいと思う。

 


湖国の城を巡る 第Ⅰ章 湖東編・参考書籍


林家辰三郎 ・編(1979)『新修・大津市史 2』大津市役所
児玉幸多・監(1980)『日本城郭体系11』新人物往来社
マキノ町誌編纂委員会(1987)『マキノ町誌』マキノ町
戦国合戦史研究会(1988)『戦国合戦大事典 5』新人物往来社
今谷明・編(1988)『室町幕府守護職家事典 下』新人物往来社
中井均・編(2006)『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版
城郭談話会・編(2014)『図解・近畿の城郭Ⅰ』中井均・監 戎光祥出版
城郭談話会・編(2017)『織豊系城郭とは何か・その成果と課題』村田修三監・戎光祥出版
新谷和之(2018)『戦国期六角氏権力と地域社会』思文閣出版
かみゆ歴史編集部(2018) 『廃城をゆく6』イカロス出版

第Ⅰ章 湖東編⑤ 瓶割山城

瓶割柴田の伝説が残る瓶割山城へ

2018年3月28日、前稿の佐生城に続いて近江八幡市の瓶割山城に訪れた。

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登城口のある山麓日吉神社

城址は、別名・長光寺城と呼ばれ、山麓日吉神社裏から遊歩道が続いている。

六角氏一族の抗争と瓶割山城

室町時代末、近江・六角氏は家督継承を巡って、一族間における抗争が激化していた。
応仁の乱では宗家である観音寺城六角高頼が西軍につき、一族の六角政堯が東軍にその身を置いた。
瓶割山城は、応仁2年(1468)六角政堯が敵対する高頼に備えて築いたと伝えられる。
文明3年(1471)8月政堯が高頼に敗れ討死すると、瓶割山城は高頼が支配することとなった。

政争に敗れ、京より逃れた将軍が仮の御所を築く

大永7年(1527)には当地に政争に敗れ、京より逃れてきた将軍・足利義晴が六角氏庇護を受け長光寺に仮の御所を構えたという。
連歌師・宗長の『宗長日記』には、仮の御所を築く際に築地の普請等を行ったと記すが、御所を構えたのは山上の城郭か、または山麓長光寺であったかは定かではない。
なお、長光寺は現在も瓶割山城東麓に存在する。

織田信長の侵攻と瓶割柴田の伝説

永禄11年(1568)、六角氏は上洛する織田信長の協力を拒否し侵攻を受けた。本拠・観音寺城を放棄し六角義賢・義治父子は甲賀に逃れて、甲賀を除く南近江は織田方の支配下にはいった。
元亀元年(1570)、体勢を立て直した六角方は旧領・南近江へと侵攻した。
織田方の柴田勝家は瓶割山城に籠城し、攻め寄せた六角方に包囲された。勝家は残った水を城兵に飲ませると、蓄えは無用と水瓶を薙刀で割った。すると兵の士気は上がり、
勝家は夜明けとともに六角方を急襲して散々に打ち破ったという。この伝承から城址のある山は、瓶割山と名付けられ城の名も瓶割山城と呼ばれるようになったという。

その後、瓶割山城は織田家臣・柴田勝家が拠点として利用した。

信長が鷹狩の山として訪れる

信長公記』には天正6年以降に度々、信長が鷹狩に長光寺山に訪れたとする記述がある。しかし、それは城としてではなく鷹狩の山として記述されている。そのことから、安土城が築かれる天正4年(1576)頃には廃城になっていたと考えられている。

 

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山上、一の郭に設置された説明版の縄張り図(写真位置を加筆)

日吉神社より整備された遊歩道

山麓日吉神社前及び山上の一の郭には縄張り図が掲載された説明版が設置されている。神社前の道路は狭く、自家用車で訪れる場合は近くには専用駐車場が用意されていないため、注意が必要である。

 

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山麓日吉神社裏にある登城口

遊歩道は整備されているが、尾根筋を歩く険しい道が山上まで続く。一の郭までは約30分ほどの時間を要した。

 

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写真位置①の堀切

遊歩道を登りきると、一の郭と二の郭の間の堀切へと入る。

高さ6mに及ぶ高石垣

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写真位置②の柴田勝家在城時に築かれたとみられる石垣

一の郭の切岸には高さ6メートルに及ぶ石垣が残る。瓶割山城は元亀元年(1570)以降、織田方の柴田勝家が在城した際に改修を行ったと考えられ、この石垣は織田方によるものではないだろうか。

 

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写真位置③ 一の郭

最高所に位置し、もっとも規模の大きい曲輪である。周囲は帯曲輪状になっているが、段差も曖昧で全体的に削平が甘い。端部に行くほど土が流れ出したかのように傾斜がかかる。石垣で区画していたが石垣の石を持ち去られたため、土砂の流出を招いた、ということだろうか。

 

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一の郭から西側を望む

一の郭から西側を望んだ眺望である。近江八幡市の市街が一望できた。右手前の高い山の山上には第二章・湖南編で訪れる八幡山城がある。

六角氏・織田氏時代の石垣が混在する

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写真位置④ 土留の石垣

東側尾根に至る位置の曲輪には、土留として石垣が用いられている。高さは50cm程度である。一の曲輪の石垣と比較した場合、あきらかに積み方や鈍角に屈折させるなど趣が違う。後に訪れる小堤城山城のものと、よく似ているように感じた。これは織田方が支配する以前の六角氏時代のものではないだろうか。

安土城の石材として持ち去られた?

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写真位置⑤ 石垣の残石と見受けられる石

東側尾根の曲輪には、石垣の残石と見受けられるものが多く残されている。それらは人為的に崩されたり、打ち捨てられているようにも見受けられる。『信長公記』には、安土城の石垣を築く際に、「所々の大石を引下」し安土に運んだという記述がある。
その大石を採取した山の中に、瓶割山城が位置する長光寺山も含まれている。これらの痕跡は、その当時のものかもしれない。

 

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写真位置⑥ 北西の腰郭群

北西の尾根は、段状に腰曲輪が連なり、途中、堀切を超えると三の郭へと至る。

 

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写真位置⑦ 三の郭・鍵の手状の土塁

三の郭は鍵の手状に土塁が用いられ、現地では米蔵とも呼ばれている。土塁は張り出しを設けて、谷筋より攻めあがってくるであろう侵入者に対して横矢をかけられるようになっている。

 

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写真位置⑧ 二の郭

一の郭南の尾根には二の郭がある。西側に土塁が用いられていた痕跡が残り、南側は堀切で遮断している。また、一の郭との間も、堀切で遮断されているように見受けられるが、よく観察すると一旦堀底に降りて対面の曲輪に登っていた可能性も否めない。

石材が抜き取られ、旧状がわからない

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写真位置⑨ 一の郭・南西端部の石積み遺構

一の郭の南西側端部をよく観察すると、虎口を形成していたであろう石積みの跡を見ることができる。瓶割山城を俯瞰して見ると、一の郭を中心に大きく改変を受けていると考えられる。その改変はおそらく天正4年(1576)の安土城築城に際しての石取りに求めることができるのではないだろうか。
ともあれ、筆者は第Ⅰ章湖東編、最後の訪問先である宇佐山城へと急ぐこととした。