第Ⅰ章 湖東編④ 佐生城

石垣が多用される観音寺城の支城

2018年3月28日、前稿の布施山城に続き、東近江市の佐生城に訪れた。

登城口は、観音寺城が位置する繖山の北方尾根続きにある北向岩屋十一面観音の駐車場先から遊歩道が続いている。

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佐生城・概略図

六角氏の重臣・後藤氏

詳細な築城年代や歴史は不明であるが、戦国期には後藤但馬守賢豊が城主であったとされる。後藤氏は六角氏の重臣で、東近江市中羽田の後藤館を中心とする一帯を本貫地としていた。

戦国期の後藤氏当主・後藤賢豊は、六角氏当主の六角義賢に重用され奉行人として当主に代わって政務を執行する権限を持たされていた。

また、浅井氏との戦いでは戦功を挙げるなど他の六角家臣からも信望を集める人物で、家臣団中では、ヒエラルキーの上位に位置していたことが知られる。

観音寺騒動のきっかけとなった後藤賢豊の暗殺

永禄5年、六角義賢は子の義治に家督を譲るが、やがて義賢と義治は対立していくことになる。永禄6年10月、義賢に重用され権勢を誇る賢豊を疎ましく思う義治によって賢豊は観音寺城内で暗殺された。『足利季世記』は、10月1日、主君よりの使いがあったと聞いた賢豊と子の又三郎は、早朝に観音寺城に出仕し、若党を率いた建部・種村の両氏によって四方を取り囲まれ殺害されたと記している。

賢豊の暗殺は六角家臣団の反発を招き、義賢・義治父子は観音寺城を退去せざるを得なくなった。家臣団と和解した当主父子は家臣が起草した当主の権限を制約された「六角氏式目」を認め、やがて織田信長の侵攻をむかえることになる。

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北向岩屋十一面観音駐車場から続く遊歩道

北向岩屋十一面観音駐車場から続く遊歩道は、木製階段が設置され歩きやすくなっている。アップダウンが続く道を歩いていると、男性と女性の方が木製階段の補修をされていた。快適に散策できる城址は城への遊歩道、さらには整備を受け持ってくれる方々の努力により成り立っていることを忘れてはならないと実感した。

六角氏によって築かれた高石垣の城・佐生城

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写真位置① 主郭西側の石垣

遊歩道を歩き詰めると、隅部を算木積みとした石垣が見えてくる。

高さは約3mほどで、織豊勢力によるものではなく、戦国期の六角氏が築いたものということには驚かされる。観音寺城に向かう尾根筋の方向には、平入りの虎口が開口する。

 

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写真位置② 主郭北西の石垣

北西方面へと歩くと、こちら側にも石垣が積まれている。上部は欠落しており往時は相当な高さの石垣であったと考えられる。

 

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写真位置③ 主郭

平入の虎口を通過し、主郭に入ってみた。主郭は台形の形状で、周囲は土塁で囲まれ、東西は段差を用いて区画している。全体的に俯瞰すると、石垣が多用されてはいるが、縄張りは単郭の城で小規模なものである。

 

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写真位置④ 城址

主郭には、後藤但馬守城址と彫られた碑が建てられている。後藤氏は、観音寺城北方の守備のために築かれた佐生城の城主として、派遣されたと考えられる。

 

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写真位置⑤ 主郭南側の石垣

主郭南側の石垣で、長さは約50mに渡る。東山道を見下ろす位置にあることから視覚的な意味合いを持って構築されたものと推察される。

 

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写真位置⑥ 主郭南西側の石垣

主郭南西側の石垣は緩やかなカーブを描いて築かれている。石垣に張り付いた侵入者に対して横矢を掛けようとする意識のあらわれであろう。

 

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写真位置⑦ 主郭南東側の張り出した石塁

南側の石垣の東端には下部に石塁がやや張り出したものがある。横矢掛けというより隘路として通り難くすることを意識したものであろうか。

 

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写真位置⑧ 石段の痕跡

主郭北側には石段の痕跡らしきものが残っていた。北側尾根からの登り道として使用した可能性も考えられる。佐生城は三方の尾根筋に対して、唯一北側のみ堀切の痕跡が確認できる。その堀切も完全に遮断したものでなく、土橋を用いて往来を可能なものとしている。

 

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写真位置⑨ 主郭東端の石垣

主郭東端の石垣である。主郭への虎口が開口している。

 

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写真位置⑩ 主郭東の食い違い状を成す岩石

主郭東には、巨石や空堀を用いて食い違いの虎口を形成している。

 

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主郭からの眺望

今は、木々が繁茂して山麓から佐生城の石垣の威容を見ることはできないが、往時は東山道から石垣つくりの城郭が良く見えたであろうと思われる。
筆者は次の訪問先である、瓶割山城へと急ぐこととした。

 

第Ⅰ章 湖東編③ 布施山城

六角氏有力被官・布施氏本家の城郭

前稿の井元城をあとにした筆者は、東近江市布施町にある布施山城へと向かった。

城主は六角氏被官で、布施氏の本貫地である蒲生郡布施を領する本家筋の布施三河守家である。
永禄6年の観音寺騒動で三河守家は北近江の浅井氏と結んで布施山城で蜂起し、主家である六角氏に反旗を翻した。六角義賢(承禎)・義治父子は観音寺城から退去し、甲賀へと逃れた。六角父子は被官・蒲生氏の調停によって観音寺城に復帰したが、被官らが起草した一定の当主の権限を制限される六角氏式目を承認せざるを得なくなった。
布施山城は永禄11年、織田信長の軍により攻撃され、落城したともいわれるが実際のところは定かではない。

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山麓の布施公園から見る布施山城

山麓の布施公園は、平日にもかかわらず多くの人が運動のために利用していた。登城口はその布施公園のため池脇にある。
布施山城が築かれる布施山は標高240m、比高は120m程を測る。ひと際高く目立つ山様で、山上の主郭までたどりつくまでは比高差以上の肉体的疲労を感じた。

 

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山腹の平内屋敷

登山道を10分ほど歩くと、やがて上写真の平内屋敷と呼ばれる広い削平地に至る。
ここは、城を管理するものの屋敷であったのかもしれない。なお城主である平時の布施三河守家居館は布施町内の公民館付近にあったという。

古墳を利用して築かれた山上の城郭

 

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布施山城 概略図

布施山城は、古墳時代中期に作られた布施山山頂の前方後円墳を利用して築かれている。
後円部が主曲輪で前方部を二曲輪(副曲輪)とした曲輪配置である。西側の尾根筋は侵入者の拡散を防ぐため尾根筋を竪堀で隘路とし、南西は畝状空堀群で緩斜面を潰している。

 

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写真位置① Ⅱ曲輪への虎口

平内屋敷を経て20分ほど遊歩道を歩くと虎口①が見えてくる。虎口の前面はテラス状の郭となっている。

 

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写真位置② Ⅱ曲輪(副曲輪)

虎口①より内部に入ったⅡ曲輪(副曲輪)②である。南側は主曲輪④となり、残る三方を土塁が囲んでいる。

 

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写真位置③ 主曲輪への虎口

Ⅱ曲輪(副曲輪)②から主曲輪④への出入り口、虎口③である。観音寺城にもみられる埋門形式であったとされ、それに使用していたと思われる巨石が散乱する。

 

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写真位置④ 主曲輪

後円墳を利用して築かれ、周囲を土塁が囲む。

 

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写真位置⑤ 主曲輪を囲む土塁

高さは50㎝~1.5m前後で北東と南西に虎口を開口させる。

 

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写真位置⑥ 畝状空堀

主曲輪④南西の虎口を出ると、緩斜面が広がる。その下にさらに降りていくと畝状空堀群⑥を確認することができる。写真ではわかりにくいので、竪堀部分を赤く着色した。
布施山城から下山した筆者は、次の訪問先である観音寺城の支城・佐生城へと向かった。

第Ⅰ章 湖東編② 井元城

近年見つかった城郭遺構

前項の大森城に続いて訪れたのが、東近江市妹町に位置する井元城である。
この城が発見されたのは1980年代と比較的新しい。それまでは伝承もなく、ここが城であるという認識は全くなかったという。

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井元城 概略図

織豊系の技術を用いる

縄張りは、周囲を土塁と空堀で囲んだ主曲輪に、馬出ⅠⅡを連続させて、重(かさ)ね馬出を形成している。さらにその外側に大規模な兵の駐屯地を構えるというもので、織豊系(織田系)の技術を用いたものと考えられる。
縄張や当時の歴史的環境から、元亀4(1573)年4月、鯰江城に六角義治が籠城した際に織田方がそれを攻めるために築いた付城であると言われる。

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写真位置① 春日神

井元城は、上写真の春日神社西側に遺構を残す。当地は奈良興福寺の荘園である鯰江荘に属しており、奈良春日大社分祀して大同4年(809)に社殿が創建された。
春日神社には創建以来、数多くの文書が残されていたが、戦国期の兵火によって一部を除き失われてしまったという。

 

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写真位置② 春日神社から井元城へ登る道

井元城へは、春日神社西側に主曲輪の切岸を削るように道が作られている。

遺構を破壊するように付けられていることから考えて、当時からのものではないと推察される。

 

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写真位置③ 主曲輪を囲む空堀

春日神社西側の道を登りきると、主曲輪背後の空堀に入る。
堆積物によって埋もれて、現状の深さは約1.5m前後となっているが、主曲輪周辺が最も明瞭に遺構を残している。

 

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写真位置④ 主曲輪

周囲は低い土塁に囲まれ、北東部分を開口して虎口としている。
四方を土塁に囲まれている上に、後述する重ね馬出しで出入り口である虎口を厳重に防御していることからも、大将格のものが居た場所と考えられる。
井元城は在地系の城郭のように長期にわたる使用を目的としたものではなく、鯰江城攻めの際にのみ使用した臨時的な城(陣城)であると思われる。

 

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写真位置⑤ 馬出Ⅰ

低いながらもコの字状に土塁が築かれている。前方は空堀となって、北と南側に土塁部が開口している。ただし南側は土塁も空堀も痕跡程度に残るばかりとなり、後世に土塁が削られて、堀を埋めてしまった可能性が高い。写真位置⑥馬出Ⅱへの開口部は北側のみで、築城当時は南側の土塁と空堀は主郭の空堀と連結されて封鎖されいたのではないだろうか。つまりは出入り口は一か所に限定されていたものと考えられる。

 

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写真位置⑥ 馬出Ⅱ

土塁は風化が激しく痕跡程度で、前面の堀も明瞭ではない。
ただし痕跡をたどれば、コの字状に形成されていたことがわかる。
主曲輪への通路に重ね馬出ⅠⅡを用いた理由は、侵入者に対して横矢をかけれることと、さらには3つの城門を配置することができたためと考えられる。これらは侵入者の攻撃スピードを大幅に削ぐことも目的のひとつであったと推察される。

 

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写真位置⑦ 削平地の土塁

部分的に確認できる場所と痕跡程度しか残らない部分がある。
北側はわずかに空堀の痕跡が確認できる。

 

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写真位置⑧ 削平地

最も大きな削平地で、大部分の兵はここに展開していたのではないだろうか。
井元城が1980年代まで城として認識されなかったのは伝承が残されなかったこと、あるいは痕跡程度と認識しずらい遺構が多かったためであろうか。
ともかくも、筆者は足早に次の訪城先へと急ぐことにした。

第Ⅰ章 湖東編① 大森城

湖東方面へ

湖国の城巡りで、まず最初にピックアップしたのは湖東方面である。
近江守護の六角氏本拠である観音寺城に近く、その被官の城が多くみられるのが特徴である。
その中でも最初に訪れたのが、六角氏被官の布施淡路守の城と伝えられる大森城である。近江布施氏は布施(東近江市・布施町)を領していた三河守家と大森(東近江市大森町)を領していた淡路守家がある。従来は後に紹介する布施山城の三河守家が本家筋であったという。

大森・布施氏

永禄6年(1563)、当主・六角義治は有力被官である後藤賢豊を暗殺した。当主父子、義賢・義治は逆に被官の反乱を招いて観音寺城を追い出された。(観音寺騒動)
やがて当主父子は被官と和解し観音寺城に復帰することになるが、被官が起草した六角氏式目という一定の当主の権限を制約される分国法を承認させられた。
その六角氏式目には淡路守系の布施淡路守公雄が署名しており、さらに観音寺城には布施淡路丸という屋敷跡があることからも、永禄年間には三河守家よりも淡路守家が勢力を増していたものと考えられている。

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大森城現地案内板の福永清治氏による縄張り図(2018年3月28日撮影)

早朝に到着した大森城

2018年3月28日早朝に自宅を出発し、高速道路利用で湖東方面の八日市に到着した。
時間を見ると、まだ午前6時前後であり、本来は次に向かう井元城を先に訪れる予定であったが、まだ日の出の時間にもなっておらず遠く薄暗いため、ある程度登ることで日の出まで時間を稼げる大森城へと向かうことにした。
大森城は東近江市大森町の大森神社背後の比高約70mの丘陵上に築かれている。大森神社付近には、登城口への案内板が設置されている。

 

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写真位置①の土橋状に削られた尾根

登城口から遊歩道を登り尾根筋に到達すると案内標識が出ており、それに従い東へと歩いて行った。途中ピークに到達するが城郭遺構らしきものはなく、さらに進むと上写真の土橋状のものが見えてきた。それを渡りきると大森城が位置する丘陵に到達する。

すり鉢状に丘陵を掘削加工した城郭

大森城は卵状の丘陵中央をすり鉢状に掘削して、周囲に土塁と高低差を設けた主曲輪群を配置した縄張りである。遺構の各所には説明版と地元の方の手製の木製人形が立てられている。

 

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写真位置② 西側虎口

上写真は、西側の虎口で城外からは一折れして入る構造になっている。
虎口より内部に入ると、段差を設けて区画した広い削平地が広がっていた。

 

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写真位置③ 登り土橋

広い削平地の南側は上写真の登り土橋を用いて、高低差を用いて築いた主曲輪部へと連絡する。

 

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写真位置④ 食い違い虎口

上段に位置する主曲輪部は本丸と二の曲輪で構成されている。登り土塁から二の曲輪に入る際は食い違い状の虎口を用いて、敵の突進力を削ぐ工夫がされている。

 

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写真位置⑤ 本丸

上写真は、本丸である。北側を除く周囲を土塁で囲み、西側の土塁は虎口を開口させる。

 

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写真位置⑥ 南西の尾根筋

南西の土塁は先端が、やや突き出している。その先は東側の尾根へと続くが、堀切等で遮断されている形跡はない。城を攻められ、支えきれなくなった場合の城外への脱出ルートとして、この尾根筋を確保していたためであろう。

 

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写真位置⑦ 分厚く高い土塁

上写真は大森城のほぼ北半分を囲んでいる土塁である。本丸の北側からは、大森城の周囲を囲む土塁の上を歩くことができる。

 

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写真位置⑧ 土塁上に築かれた櫓台

土塁上の随所には、櫓台とみられる高まりがある。

 

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写真位置⑨ すり鉢状に掘削され削平された曲輪

上写真は土塁上より、大森城中央の曲輪を見たものである。すり鉢状に掘削され築かれていることがわかる。大森城の見学を終え、次の訪問先である井元城へと向かった。

 

湖国の城をめぐる 序章

未訪の湖国の城を目指して

2018年3月末から4月末まで内の4日間、湖国滋賀の城巡りに行った。

筆者は近年、丹波を中心に京都・兵庫・岡山の城郭に訪れ、縄張り図の作成等を行う活動を行っている。滋賀県については、安土城をはじめ、特に有名な城郭や甲賀地方の土塁囲みの城郭には訪れたことがある。しかし、六角氏・浅井氏や、さらには織豊系の城郭など、まだ見ぬ城も多いのが現状である。

普段活動している地域と湖国の城郭は、どのような差異があるのか、また共通点が見いだせるのかが知りたかった。

ネットや書籍で写真や説明は見られる時代であるが、百見は一考にしかずということで、湖国滋賀県の城郭に訪れることになった。

同行者と語り合いながらの城巡り

滋賀県では計4日間の活動になったが、内2日間は同行者との城巡りとなった。

二人とも、当ブログのブロ友であり、また長い付き合いの方であるHさんとTさんである。ともに筆者が所属するオフ会グループの戦国倶楽部の仲間である。

 

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各章で巡った城の位置図

さて、今回は湖東・湖南・湖西・湖北と4つの地方を各章に分け湖国の城巡りの成果をお届けしたい。なお4つ地方の呼称は筆者が便宜的に付けたものである。
第Ⅰ章の次稿は湖東の城へと向かってみたい。

荒木城 北西尾根の曲輪群を歩く

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荒木城 縄張り図

荒木城中心部から北西尾根へ

本稿では、北西尾根の曲輪群を歩いていく。

北西尾根郭群へは、「荒木城中心部を歩く」で紹介した曲輪⑩の北東方向に、スロープ状の通路がある。そこを降り、北西に続く道を歩けば写真位置㉒の堀切に到達する。

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写真位置㉒の堀切

本丸方面とを遮断する目的で掘られたと考えられる。
堀底は広く、堆積物の影響であろうか浅い印象がある。よく目を凝らしてみると西側には土橋の痕跡らしきものが確認できる。

細尾根に築かれた曲輪群

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写真位置㉓の尾根筋を削り出した土橋状の通路

尾根筋を削り、人が一人通過できるくらいの幅しかない。両サイドは切り立った崖となっている。大人数を渡らせず攻城軍の突進力を削ぐ工夫であろう。

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写真位置㉔の細尾根に築かれた曲輪

 北西尾根の曲輪群は、細い尾根筋を利用し部分的に櫓台状の土塁を用いたものが多数みられる。

 

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写真位置㉕の曲輪

 北西尾根曲輪群の末端部に位置し、鶏卵状に形成されており東側に土塁を用いる。本丸方向に対して、土塁を開口して築いた虎口が見られる。
侵入者が北西尾根の曲輪上に到達したとき、曲輪㉕が単体でも機能できるように虎口を設けたのではないだろうか。周囲には尾根筋からの侵入者の拡散を防ぐため、竪堀が多数、掘られている。ここより南西の尾根筋にも曲輪跡らしき痕跡が多数見られる。

これは、荒木城の籠城戦が兵士のみではなく、多数の住民をも巻き込んだ戦いであった証左の一つであろうか。

 戦国期の遺構を今に伝える重要な史跡 荒木城跡

「整備された荒木城」と「細工所砦」を含めると全6回にわたり荒木城跡を見てきた。

一旦は荒廃しながらも有志・地元の方々の協力によって、素晴らしい状況へと復活した。

当城は、戦国期の遺構を今に伝える重要な史跡であり、歴史的にも織田信長の一代記『信長公記』に登場する城郭でもある。

是非、篠山市に訪れる機会があれば足を伸ばしていただければ幸いである。 

南東尾根の曲輪群を歩く

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荒木城 縄張り図

中心部から南東の尾根に展開する曲輪群へ

本稿では、本丸から南東方向の尾根に連なる曲輪群へと歩いていきたい。
江戸時代中頃に成立した地誌『丹波志』では、この南東の曲輪群側を大手としている。
ゆえに中心部に次いでやや技巧的な縄張も垣間見ることができる。

 

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写真位置⑯の曲輪

この曲輪は、前稿「荒木城中心部を歩く」の写真位置⑬の曲輪西側にある枡形虎口から続く道を降ってきた所に位置する。この曲輪からは鉄砲丸を望むことができる。

荒木城攻めの付け城・鉄砲丸

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荒木城から望む鉄砲丸

天正6年(1578年)4月、明智・滝川・丹羽が荒木城を攻撃する際、荒木城東方の山上に付城を築いた。それが鉄砲丸である。織田方は鉄砲丸から、荒木城に向けて鉄砲を放ったという。上記写真の山頂部に鉄砲丸があるというが、筆者はまだ訪れたことがない。

伝・大手側の曲輪群

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写真位置⑰の堀切

現在、曲輪⑯からは直接切岸に道が付けられ、ここへと降りるようになっている。堀切⑰の西側には、もう一本道があり、それを辿ると前稿「荒木城中心部を歩く」の写真位置⑬の曲輪西側の枡形虎口手前へと繋がる。現在は枡形虎口手前が若干崩れて登り難くなっているが、荒木城が機能した頃の本来の城道は、堀切⑰西側の道であろうと筆者は考える。

 

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写真位置⑱の尾根筋を削り出した通路

人工的に尾根筋を削り出し、一度に多人数が通過できないように工夫されてる。

 

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写真位置⑲の曲輪

南東郭群は西側の谷筋沿いに通路を作って、各曲輪間の往来に使用している。その通路脇には、規模の大きな曲輪を連続させて侵入者に備えている。

屈折した通路を作る竪堀

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写真位置⑳の竪堀

写真位置⑳の竪堀を下から撮影したものである。侵入者は城外より虎口㉑を通過して入る際、この竪堀に阻まれて直進させず、一折れさせられて城内へと導かれる。侵入者の突進力を削ぐためのひとつの工夫と考えられよう。

 

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写真位置㉑の土塁

現在は土塁中央を削り登山道としているが、本来は上述のように土塁の西側の竪堀によって屈折された通路を通って城内に入った。この写真位置㉑の虎口より山麓に向けて南に延びる尾根筋が伝・大手と言われる。
次項では、北西尾根の曲輪群に向かってみたい。