整備された荒木城
2020年の大河ドラマは丹波で躍動した明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」に決まった。どのように光秀と丹波の関わり合いについて描かれるかにも注目したい。
筆者は光秀が丹波攻めの攻略対象とした城では、2007年冬に波多野氏の本拠、丹波八上城に訪れたことを思い出す。
そこから長らくの間、今に至るまで丹波の山城との付き合いが続いている。
荒木城は、その丹波の城の1つで篠山市東部に位置し、城主は八上城の波多野氏に従った国人・荒木氏である。
荒木氏は波多野氏の一族と言われるが、実際の出自等はよくわかってはいない。
また、本拠の荒木城を永禄年間に築城したと伝えられるが、そのいきさつも不明である。
荒木城については天正年間に至り、確実な歴史が史料に残されることになる。
信長の一代記『信長公記』等に明智光秀による第二次丹波侵攻戦にて、天正六年四月、明智・滝川・丹羽の三氏により攻められ、水の手押さえられ落城したという事実である。時の城主は荒木氏綱で、この攻城戦では大激戦が繰り広げたとされ、その様子を伝えた「井串極楽、細工所地獄、塩岡岩ヶ鼻立ち地獄」という俗謡が残されている。
詳しい歴史や縄張り解説については『図解近畿の城郭Ⅲ』で取り上げたので是非、ご一読いただければ幸いである。
従来、荒木城は地元の方により登山道が整備され、土地の名を冠した細工所城と言う名前で親しまれてきた。
城址の整備については、必要な箇所を適宜伐採した日本各地に残される一般的な山城の様相を呈していた。
中央は灌木が茂り、両端部は見通せないが、
背の高い木々が適度な日陰をつくり、下草は、あまり繁茂していない。
中央は灌木が茂り、両端部は見通せないが、
背の高い木々が適度な日陰をつくり、下草は、あまり繁茂していない。
適度な日陰があり、本丸同様に下草はあまりみられない。
矢竹がやや繁茂した場所であったが、
内部にも十分足を踏み入れることができた。
このような荒木城に変化をもたらしたのは2016年春の多紀3小学校の閉校記念合同事情(狼煙プロジェクト)である。
その際に本丸一体は大規模に伐採が行われた。伐採は狼煙をあげ、それを見やすくすることを第一義としたもので、城址整備のためのものではなかった。
そのため伐採された木々や、それに付随する枝等が本丸を除いた郭に残された。
現在各種ホームページやブログ等で荒木城が紹介されている多くのものは、そのプロジェクト直後に登城したもの、もしくはプロジェクト前のものを掲載したものである。一部のブログではその状態を批判さえしているものもある。
灌木さらには背の高い太い木々も伐採され、
郭の東西も見渡せるようになった。
しかし日陰が少なくなり、下草が繁茂する状態となっている。
2017年の10月には下草は伐採されており、良好な状態になっていた。
このような状況を鑑みて2016年夏より地元&有志により城址の整備が始まった。
整備は約1年間にわたり継続されたものとみられ、今では篠山市で最も美しく整備された城となっている。
木々が伐採され、山麓が見渡せるようになっている。
伐採された木々が郭内に、そのまま、放置された状態であった。
郭内に放置されていた木々は適切な長さに切られ、一か所にまとめ、整理されている。
伐採された木とそれに付随していた枝が高さ約2mにわたり堆積していた。
2mにわたり堆積していた木や枝は取り除かれ、良好な状態となっている。
伐採された木々がそのまま放置され、郭内に入ることすら困難であった。
木々は、適切な長さにカットされ集約されている。
大雨・巨大台風・大雪を始めとした昨今の異常気象では再び城址が荒れる恐れがあり、整備は継続して行う必要がある。
筆者はこれからも整備保存活動が継続して行えることを願ってやまない。
さてそのような荒木城を次回からは山麓より登ってみたいと思う。