第Ⅰ章 湖東編① 大森城

湖東方面へ

湖国の城巡りで、まず最初にピックアップしたのは湖東方面である。
近江守護の六角氏本拠である観音寺城に近く、その被官の城が多くみられるのが特徴である。
その中でも最初に訪れたのが、六角氏被官の布施淡路守の城と伝えられる大森城である。近江布施氏は布施(東近江市・布施町)を領していた三河守家と大森(東近江市大森町)を領していた淡路守家がある。従来は後に紹介する布施山城の三河守家が本家筋であったという。

大森・布施氏

永禄6年(1563)、当主・六角義治は有力被官である後藤賢豊を暗殺した。当主父子、義賢・義治は逆に被官の反乱を招いて観音寺城を追い出された。(観音寺騒動)
やがて当主父子は被官と和解し観音寺城に復帰することになるが、被官が起草した六角氏式目という一定の当主の権限を制約される分国法を承認させられた。
その六角氏式目には淡路守系の布施淡路守公雄が署名しており、さらに観音寺城には布施淡路丸という屋敷跡があることからも、永禄年間には三河守家よりも淡路守家が勢力を増していたものと考えられている。

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大森城現地案内板の福永清治氏による縄張り図(2018年3月28日撮影)

早朝に到着した大森城

2018年3月28日早朝に自宅を出発し、高速道路利用で湖東方面の八日市に到着した。
時間を見ると、まだ午前6時前後であり、本来は次に向かう井元城を先に訪れる予定であったが、まだ日の出の時間にもなっておらず遠く薄暗いため、ある程度登ることで日の出まで時間を稼げる大森城へと向かうことにした。
大森城は東近江市大森町の大森神社背後の比高約70mの丘陵上に築かれている。大森神社付近には、登城口への案内板が設置されている。

 

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写真位置①の土橋状に削られた尾根

登城口から遊歩道を登り尾根筋に到達すると案内標識が出ており、それに従い東へと歩いて行った。途中ピークに到達するが城郭遺構らしきものはなく、さらに進むと上写真の土橋状のものが見えてきた。それを渡りきると大森城が位置する丘陵に到達する。

すり鉢状に丘陵を掘削加工した城郭

大森城は卵状の丘陵中央をすり鉢状に掘削して、周囲に土塁と高低差を設けた主曲輪群を配置した縄張りである。遺構の各所には説明版と地元の方の手製の木製人形が立てられている。

 

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写真位置② 西側虎口

上写真は、西側の虎口で城外からは一折れして入る構造になっている。
虎口より内部に入ると、段差を設けて区画した広い削平地が広がっていた。

 

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写真位置③ 登り土橋

広い削平地の南側は上写真の登り土橋を用いて、高低差を用いて築いた主曲輪部へと連絡する。

 

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写真位置④ 食い違い虎口

上段に位置する主曲輪部は本丸と二の曲輪で構成されている。登り土塁から二の曲輪に入る際は食い違い状の虎口を用いて、敵の突進力を削ぐ工夫がされている。

 

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写真位置⑤ 本丸

上写真は、本丸である。北側を除く周囲を土塁で囲み、西側の土塁は虎口を開口させる。

 

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写真位置⑥ 南西の尾根筋

南西の土塁は先端が、やや突き出している。その先は東側の尾根へと続くが、堀切等で遮断されている形跡はない。城を攻められ、支えきれなくなった場合の城外への脱出ルートとして、この尾根筋を確保していたためであろう。

 

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写真位置⑦ 分厚く高い土塁

上写真は大森城のほぼ北半分を囲んでいる土塁である。本丸の北側からは、大森城の周囲を囲む土塁の上を歩くことができる。

 

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写真位置⑧ 土塁上に築かれた櫓台

土塁上の随所には、櫓台とみられる高まりがある。

 

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写真位置⑨ すり鉢状に掘削され削平された曲輪

上写真は土塁上より、大森城中央の曲輪を見たものである。すり鉢状に掘削され築かれていることがわかる。大森城の見学を終え、次の訪問先である井元城へと向かった。