第Ⅰ章 湖東編② 井元城
近年見つかった城郭遺構
前項の大森城に続いて訪れたのが、東近江市妹町に位置する井元城である。
この城が発見されたのは1980年代と比較的新しい。それまでは伝承もなく、ここが城であるという認識は全くなかったという。
織豊系の技術を用いる
縄張りは、周囲を土塁と空堀で囲んだ主曲輪に、馬出ⅠⅡを連続させて、重(かさ)ね馬出を形成している。さらにその外側に大規模な兵の駐屯地を構えるというもので、織豊系(織田系)の技術を用いたものと考えられる。
縄張や当時の歴史的環境から、元亀4(1573)年4月、鯰江城に六角義治が籠城した際に織田方がそれを攻めるために築いた付城であると言われる。
井元城は、上写真の春日神社西側に遺構を残す。当地は奈良興福寺の荘園である鯰江荘に属しており、奈良春日大社を分祀して大同4年(809)に社殿が創建された。
春日神社には創建以来、数多くの文書が残されていたが、戦国期の兵火によって一部を除き失われてしまったという。
井元城へは、春日神社西側に主曲輪の切岸を削るように道が作られている。
遺構を破壊するように付けられていることから考えて、当時からのものではないと推察される。
春日神社西側の道を登りきると、主曲輪背後の空堀に入る。
堆積物によって埋もれて、現状の深さは約1.5m前後となっているが、主曲輪周辺が最も明瞭に遺構を残している。
周囲は低い土塁に囲まれ、北東部分を開口して虎口としている。
四方を土塁に囲まれている上に、後述する重ね馬出しで出入り口である虎口を厳重に防御していることからも、大将格のものが居た場所と考えられる。
井元城は在地系の城郭のように長期にわたる使用を目的としたものではなく、鯰江城攻めの際にのみ使用した臨時的な城(陣城)であると思われる。
低いながらもコの字状に土塁が築かれている。前方は空堀となって、北と南側に土塁部が開口している。ただし南側は土塁も空堀も痕跡程度に残るばかりとなり、後世に土塁が削られて、堀を埋めてしまった可能性が高い。写真位置⑥馬出Ⅱへの開口部は北側のみで、築城当時は南側の土塁と空堀は主郭の空堀と連結されて封鎖されいたのではないだろうか。つまりは出入り口は一か所に限定されていたものと考えられる。
土塁は風化が激しく痕跡程度で、前面の堀も明瞭ではない。
ただし痕跡をたどれば、コの字状に形成されていたことがわかる。
主曲輪への通路に重ね馬出ⅠⅡを用いた理由は、侵入者に対して横矢をかけれることと、さらには3つの城門を配置することができたためと考えられる。これらは侵入者の攻撃スピードを大幅に削ぐことも目的のひとつであったと推察される。
部分的に確認できる場所と痕跡程度しか残らない部分がある。
北側はわずかに空堀の痕跡が確認できる。
最も大きな削平地で、大部分の兵はここに展開していたのではないだろうか。
井元城が1980年代まで城として認識されなかったのは伝承が残されなかったこと、あるいは痕跡程度と認識しずらい遺構が多かったためであろうか。
ともかくも、筆者は足早に次の訪城先へと急ぐことにした。