第Ⅰ章 湖東編③ 布施山城

六角氏有力被官・布施氏本家の城郭

前稿の井元城をあとにした筆者は、東近江市布施町にある布施山城へと向かった。

城主は六角氏被官で、布施氏の本貫地である蒲生郡布施を領する本家筋の布施三河守家である。
永禄6年の観音寺騒動で三河守家は北近江の浅井氏と結んで布施山城で蜂起し、主家である六角氏に反旗を翻した。六角義賢(承禎)・義治父子は観音寺城から退去し、甲賀へと逃れた。六角父子は被官・蒲生氏の調停によって観音寺城に復帰したが、被官らが起草した一定の当主の権限を制限される六角氏式目を承認せざるを得なくなった。
布施山城は永禄11年、織田信長の軍により攻撃され、落城したともいわれるが実際のところは定かではない。

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山麓の布施公園から見る布施山城

山麓の布施公園は、平日にもかかわらず多くの人が運動のために利用していた。登城口はその布施公園のため池脇にある。
布施山城が築かれる布施山は標高240m、比高は120m程を測る。ひと際高く目立つ山様で、山上の主郭までたどりつくまでは比高差以上の肉体的疲労を感じた。

 

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山腹の平内屋敷

登山道を10分ほど歩くと、やがて上写真の平内屋敷と呼ばれる広い削平地に至る。
ここは、城を管理するものの屋敷であったのかもしれない。なお城主である平時の布施三河守家居館は布施町内の公民館付近にあったという。

古墳を利用して築かれた山上の城郭

 

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布施山城 概略図

布施山城は、古墳時代中期に作られた布施山山頂の前方後円墳を利用して築かれている。
後円部が主曲輪で前方部を二曲輪(副曲輪)とした曲輪配置である。西側の尾根筋は侵入者の拡散を防ぐため尾根筋を竪堀で隘路とし、南西は畝状空堀群で緩斜面を潰している。

 

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写真位置① Ⅱ曲輪への虎口

平内屋敷を経て20分ほど遊歩道を歩くと虎口①が見えてくる。虎口の前面はテラス状の郭となっている。

 

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写真位置② Ⅱ曲輪(副曲輪)

虎口①より内部に入ったⅡ曲輪(副曲輪)②である。南側は主曲輪④となり、残る三方を土塁が囲んでいる。

 

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写真位置③ 主曲輪への虎口

Ⅱ曲輪(副曲輪)②から主曲輪④への出入り口、虎口③である。観音寺城にもみられる埋門形式であったとされ、それに使用していたと思われる巨石が散乱する。

 

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写真位置④ 主曲輪

後円墳を利用して築かれ、周囲を土塁が囲む。

 

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写真位置⑤ 主曲輪を囲む土塁

高さは50㎝~1.5m前後で北東と南西に虎口を開口させる。

 

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写真位置⑥ 畝状空堀

主曲輪④南西の虎口を出ると、緩斜面が広がる。その下にさらに降りていくと畝状空堀群⑥を確認することができる。写真ではわかりにくいので、竪堀部分を赤く着色した。
布施山城から下山した筆者は、次の訪問先である観音寺城の支城・佐生城へと向かった。