第Ⅰ章 湖東編⑤ 瓶割山城

瓶割柴田の伝説が残る瓶割山城へ

2018年3月28日、前稿の佐生城に続いて近江八幡市の瓶割山城に訪れた。

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登城口のある山麓日吉神社

城址は、別名・長光寺城と呼ばれ、山麓日吉神社裏から遊歩道が続いている。

六角氏一族の抗争と瓶割山城

室町時代末、近江・六角氏は家督継承を巡って、一族間における抗争が激化していた。
応仁の乱では宗家である観音寺城六角高頼が西軍につき、一族の六角政堯が東軍にその身を置いた。
瓶割山城は、応仁2年(1468)六角政堯が敵対する高頼に備えて築いたと伝えられる。
文明3年(1471)8月政堯が高頼に敗れ討死すると、瓶割山城は高頼が支配することとなった。

政争に敗れ、京より逃れた将軍が仮の御所を築く

大永7年(1527)には当地に政争に敗れ、京より逃れてきた将軍・足利義晴が六角氏庇護を受け長光寺に仮の御所を構えたという。
連歌師・宗長の『宗長日記』には、仮の御所を築く際に築地の普請等を行ったと記すが、御所を構えたのは山上の城郭か、または山麓長光寺であったかは定かではない。
なお、長光寺は現在も瓶割山城東麓に存在する。

織田信長の侵攻と瓶割柴田の伝説

永禄11年(1568)、六角氏は上洛する織田信長の協力を拒否し侵攻を受けた。本拠・観音寺城を放棄し六角義賢・義治父子は甲賀に逃れて、甲賀を除く南近江は織田方の支配下にはいった。
元亀元年(1570)、体勢を立て直した六角方は旧領・南近江へと侵攻した。
織田方の柴田勝家は瓶割山城に籠城し、攻め寄せた六角方に包囲された。勝家は残った水を城兵に飲ませると、蓄えは無用と水瓶を薙刀で割った。すると兵の士気は上がり、
勝家は夜明けとともに六角方を急襲して散々に打ち破ったという。この伝承から城址のある山は、瓶割山と名付けられ城の名も瓶割山城と呼ばれるようになったという。

その後、瓶割山城は織田家臣・柴田勝家が拠点として利用した。

信長が鷹狩の山として訪れる

信長公記』には天正6年以降に度々、信長が鷹狩に長光寺山に訪れたとする記述がある。しかし、それは城としてではなく鷹狩の山として記述されている。そのことから、安土城が築かれる天正4年(1576)頃には廃城になっていたと考えられている。

 

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山上、一の郭に設置された説明版の縄張り図(写真位置を加筆)

日吉神社より整備された遊歩道

山麓日吉神社前及び山上の一の郭には縄張り図が掲載された説明版が設置されている。神社前の道路は狭く、自家用車で訪れる場合は近くには専用駐車場が用意されていないため、注意が必要である。

 

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山麓日吉神社裏にある登城口

遊歩道は整備されているが、尾根筋を歩く険しい道が山上まで続く。一の郭までは約30分ほどの時間を要した。

 

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写真位置①の堀切

遊歩道を登りきると、一の郭と二の郭の間の堀切へと入る。

高さ6mに及ぶ高石垣

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写真位置②の柴田勝家在城時に築かれたとみられる石垣

一の郭の切岸には高さ6メートルに及ぶ石垣が残る。瓶割山城は元亀元年(1570)以降、織田方の柴田勝家が在城した際に改修を行ったと考えられ、この石垣は織田方によるものではないだろうか。

 

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写真位置③ 一の郭

最高所に位置し、もっとも規模の大きい曲輪である。周囲は帯曲輪状になっているが、段差も曖昧で全体的に削平が甘い。端部に行くほど土が流れ出したかのように傾斜がかかる。石垣で区画していたが石垣の石を持ち去られたため、土砂の流出を招いた、ということだろうか。

 

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一の郭から西側を望む

一の郭から西側を望んだ眺望である。近江八幡市の市街が一望できた。右手前の高い山の山上には第二章・湖南編で訪れる八幡山城がある。

六角氏・織田氏時代の石垣が混在する

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写真位置④ 土留の石垣

東側尾根に至る位置の曲輪には、土留として石垣が用いられている。高さは50cm程度である。一の曲輪の石垣と比較した場合、あきらかに積み方や鈍角に屈折させるなど趣が違う。後に訪れる小堤城山城のものと、よく似ているように感じた。これは織田方が支配する以前の六角氏時代のものではないだろうか。

安土城の石材として持ち去られた?

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写真位置⑤ 石垣の残石と見受けられる石

東側尾根の曲輪には、石垣の残石と見受けられるものが多く残されている。それらは人為的に崩されたり、打ち捨てられているようにも見受けられる。『信長公記』には、安土城の石垣を築く際に、「所々の大石を引下」し安土に運んだという記述がある。
その大石を採取した山の中に、瓶割山城が位置する長光寺山も含まれている。これらの痕跡は、その当時のものかもしれない。

 

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写真位置⑥ 北西の腰郭群

北西の尾根は、段状に腰曲輪が連なり、途中、堀切を超えると三の郭へと至る。

 

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写真位置⑦ 三の郭・鍵の手状の土塁

三の郭は鍵の手状に土塁が用いられ、現地では米蔵とも呼ばれている。土塁は張り出しを設けて、谷筋より攻めあがってくるであろう侵入者に対して横矢をかけられるようになっている。

 

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写真位置⑧ 二の郭

一の郭南の尾根には二の郭がある。西側に土塁が用いられていた痕跡が残り、南側は堀切で遮断している。また、一の郭との間も、堀切で遮断されているように見受けられるが、よく観察すると一旦堀底に降りて対面の曲輪に登っていた可能性も否めない。

石材が抜き取られ、旧状がわからない

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写真位置⑨ 一の郭・南西端部の石積み遺構

一の郭の南西側端部をよく観察すると、虎口を形成していたであろう石積みの跡を見ることができる。瓶割山城を俯瞰して見ると、一の郭を中心に大きく改変を受けていると考えられる。その改変はおそらく天正4年(1576)の安土城築城に際しての石取りに求めることができるのではないだろうか。
ともあれ、筆者は第Ⅰ章湖東編、最後の訪問先である宇佐山城へと急ぐこととした。