第Ⅰ章 湖東編⑥ 宇佐山城

織豊系城郭の宇佐山城へ

2018年3月28日、瓶割山城へ訪れた筆者は次いで、滋賀県大津市の宇佐山城に向かった。本章は湖東編と題するが、宇佐山城は実際には湖西に位置する城である。

当城を本章に組み入れた理由は、当日訪城のラストでかつメインとして、すえたいという筆者の個人的思いがあったためである。瓶割山城麓から宇佐山城への登城口がある宇佐八幡宮までは、もっとも早く移動できるであろう名神高速道路を利用して約50Kmの距離がある。瓶割山城麓を出発したのは午後3時30分を過ぎており、登城口がある宇佐八幡宮に到着したころには、すでに夕日が傾きかけていた。

近江と京を往来する道の監視のために森可成が築く

宇佐山城は永禄13年(1570)に織田信長の家臣、森可成が信長の命を受け築いた。近江国・志賀の地に築かれたことから、『多門院日記』をはじめとする当時の記録には、「志賀乃城」または「志賀要害」として登場する。当時、近江と京を結ぶ主要道は、山中越(現・滋賀県道30号線付近)と逢坂越(現・国道1号線付近)の二道があった。森可成は、この二道を閉鎖して、新たに宇佐山城麓を通過する新道を開いた。すなわち宇佐山城が築かれた当初の目的は、京へと往来する唯一の道を押さえ、監視するものであった。やがて城主の変遷とともに、城の運用方法も変わっていくことになる。

志賀の陣 朝倉・浅井方が襲来し森可成は戦うも討死

元亀元年(1570)7月、三好三人衆と、それに呼応した石山本願寺が摂津で蜂起した。織田信長は摂津へと出陣し、その隙をついて姉川の戦い以来、なりを潜めていた浅井・朝倉連合軍が湖西方面へと兵を動かした。浅井長政は琵琶湖を北西に迂回して南進し、朝倉義景は若狭口より南下した。両軍は今津で合流し、9月16日、浅井・朝倉連合軍3万と僅か千の兵を率いた森可成織田信治の軍が坂本で激突した。初戦は織田方が勇戦したが、19日には浅井・朝倉方は二方向に分かれて進撃し、翌20日には激闘の末、森可成織田信治らは討ち死にした。勢いに乗った浅井・朝倉連合軍は宇佐山城の端城まで攻め上がってきたが、城兵は城を固く守り撃退している。

信長が宇佐山城に入城

23日には、急報を聞いた信長が大坂の陣を引き払って京を経由し近江へと向かった。浅井・朝倉連合軍は比叡山系の青山・壺笠山に立てこもり、信長は宇佐山城を本陣として包囲した。両軍の対陣は12月まで続き、同14日に朝廷からの講和勧告である綸旨によって和議が成立して両軍は兵を引いた。

宇佐山城は明智光秀の本拠に

志賀の地は明智光秀に与えられ、元亀3年(1572)に坂本城が築かれるまで宇佐山城を本拠としていたという。坂本城が築かれた後、ほどなく宇佐山城は廃城になったと考えられる。

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宇佐山城 鳥観図

急ぎ宇佐山城に登城

宇佐山城は比叡山系の宇佐山(標高336m)に築かれ、瓶割山城より到着した筆者は、山腹の宇佐八幡宮から遊歩道を急いで登った。

 

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宇佐山八幡宮から続く遊歩道

時間はすでに午後4時30分を過ぎており、すでに周囲は薄暗かった。

 

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写真位置①の石垣

遊歩道を歩くこと20分、左手に石垣が見えてきた。遊歩道から外れて、やや斜面を登って近づいてみると、高さは約1.5m前後で端部は崩されているように見える。破城の痕跡であろうか。

宇佐山城の本城部を見学

宇佐山城は、最高所に主郭Ⅰを配し、その南側にⅡ郭、主郭Ⅰ郭の北東に堀切を隔てて、Ⅲ郭を配置した縄張りである。なお、Ⅲ郭の北東尾根続きにも城郭遺構があるという。この北東尾根続きの城郭遺構こそが元亀元年に森可成が討ち死にした後、浅井・朝倉連合軍が攻め上がってきた端城の跡だという。今回の訪城では、時間の都合で本城部のみの見学に留まり、見学することができなかった。またの楽しみにしたい。

メインルート沿いに築かれていた石垣

遊歩道は、山麓から城址直近までは一部当時の城道(大手道)を踏襲している可能性が考えられる。遊歩道はこのまま堀切(写真位置②)へとつながるが、推定される本来のメインルート(大手道)としての城道は石垣前(写真位置①)より南西へと伸びて曲輪Ⅱの南にある腰曲輪群を通過して主郭Ⅰへと向かったようである。現在、宇佐山城に見られる立派な石垣は、すべて推定される城道沿いに築かれている。

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写真位置② 堀切

主郭ⅠとⅢ郭の間を遮断する堀切である。だが一見すると幅の広い虎口のように見える。写真位置①の石垣から堀切へと至る遊歩道は従来から城道とはみなされてこなかった。しかし主郭ⅠとⅢ郭の往来の方法がないこと、さらに、この堀切の南側にある横堀状遺構の存在を考えれば、Ⅲ郭方面へのルートとしては確立していたと考えるのが自然ではないだろうか。

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写真位置③ 横堀状遺構

内部は堆積物により埋まっているが、横堀を形成する土塁がよくわかる。右側は主郭Ⅰの切岸で、横堀内には石垣に使用していたと思われる石材が散見される。主郭Ⅰの切岸は石垣によって固められていたのであろう。

横堀状遺構は塹壕であった可能性

この横堀状遺構を塹壕と考えれば、主郭ⅠとⅢ郭間の堀切の意味が見えてくる。Ⅰ郭とⅢ郭の間に入った侵入者は両郭から攻撃され、なおかつ塹壕内の守備兵からも狙撃されたことであろう。この堀切内へのルートが存在していないとすれば、Ⅲ郭も横堀状遺構も意味をなさなくなるのである。塹壕内へは主郭ⅠからⅣ郭を通過して入ったと思われ、それらをつなぐ手段としては、有機物である木製の梯子や階段を利用していたと筆者は考える。ゆえに、今はその痕跡を地表面に残さないのであろう。堀切内部から主郭Ⅰの切岸に付けられたコンクリート製の階段を登りきると、主郭Ⅰ内部に入る。

 

放送施設建設に伴う発掘調査が行われた主郭Ⅰ

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写真位置④ 主郭Ⅰ


主郭Ⅰは、くの字状で城内では最も広い面積を有する曲輪で、現在はNHKの中継所が建てられている。昭和43年、放送施設建設に伴う発掘調査が実施され、主郭Ⅰからは瓦や排水遺構・石段等が検出された。織田信長は元亀元年(1570)9月末より約二か月間にわたって宇佐山城を本陣として、朝倉・浅井方と対陣している。同年11月には、公家・山科言継や六角承禎(義賢)らが宇佐山城に訪れ、会所機能を持つ、御殿のような建物で信長と対面したという。また、山麓には家臣が住まう「小屋」が建てられ、宇佐山城は織田家の準本拠としての位置づけとなっていた。宇佐山城の運用法は、森可成在城期とはうってかわっていたようである。

 

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写真位置⑤ 食い違い虎口

主郭Ⅰ郭の南側には食い違いの虎口を通過してⅡ郭へと繋がるが、その食い違い虎口の一部を形成する土塁を主郭Ⅰ側から見たものである。土塁は分厚く、Ⅱ郭側は横堀を用いて切岸を高くする工夫がみられる。

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食い違い虎口 概略図

Ⅰ郭とⅡ郭間の簡単な図を描いてみた。Ⅱ郭から直進した侵入者はⅠ郭の切岸で進路を左に折られ、さらにⅠ郭に入るには右手にもうひと折れすることが要求される。この食い違い虎口は、ひと折れした先の前方は城門で閉ざし、Ⅰ郭の切岸と南側の土塁で閉塞された空間を作って、侵入者に対しては主郭Ⅰ南端部の櫓台から攻撃を行い殲滅する・・という仕組みだったのではないだろうか。

 

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写真位置⑥ Ⅱ郭

Ⅱ郭は長方形に近い形状で、城内第二位の規模を有する。中央部分が有刺鉄線で囲まれており、南側は矢竹が密生していた。

 

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写真位置⑦ 腰曲輪に続く竪土塁状の通路

Ⅱ郭南西には、腰郭に降る登り土塁状の通路がある。それに従って腰郭に降りてみた。

 

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写真位置⑧の腰曲輪

面積は小さいがⅡ郭へ向けての切岸は鋭角で、曲輪内は灌木が繁茂していた。ここからさらにもう二段、腰曲輪が連続しており、降りてみることにした。

 

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写真位置⑨の腰曲輪

これらの腰曲輪は、写真位置①から続く主郭Ⅰへのメインルートの途中にあり、通路を兼ねた曲輪として利用されていた模様である。戦時には兵を駐屯させ、障害物を作って主郭への通路を守ったことであろう。

登城者に見せるための石垣

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写真位置⑩の石垣

写真位置⑨の腰曲輪直下には高さ1.5m前後の石垣が残されている。是非、見逃さずにおきたい遺構の一つである。宇佐山城の石垣は坂本の町に面したのみに見られるものの、現在残る状況から高さ等を推定復元しても山麓から映えるように見える威圧的なものではなかったと考えられる。それらはすべて主郭Ⅰへと向かうメインルート沿いに集中していることから、登城者に対する視覚的な意味合いが大きかったのであろう。

 

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写真位置⑪ Ⅲ郭

主郭Ⅰ北方のⅢ郭へと移動した。この曲輪も規模が大きく、主に兵の駐屯を目的としたのではないだろうか。

 

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写真位置⑫ 石積み

Ⅲ郭の東側の切岸には土留めを目的としたであろう石積みが残されている。

現在残る縄張りについて考察

さて、宇佐山城の本城部を見学してきた。現在残る遺構や縄張りは、いつの時期に完成したかを考えてみたい。

森可成

森可成期には、近江と京を往来する道の監視を第一の目的とし、山上に居住するという考えはなかったであろう。また、山上で会見するような会所的な機能を持つ建物もなかったであろうし、登城者に対する視覚的な意味合いを持つ石垣も必要はなかったと思われる。

織田信長

朝倉・浅井方が来襲したという急報を聞いて出陣先の大坂より急遽もどって宇佐山城に入った信長自身は、長期滞陣になることまでは予測していなかったであろう。信長期の宇佐山城は、長期滞陣になるにつれて、なし崩し的に準本拠的な城へとなっていったのではないだろうか。会所機能をもつ建物が建てられたものの、信長在城した短い期間では現在みられるような石垣を含めた遺構が完成されたとは考え難いのではないだろうか。もしなしえたとすれば信長在城中は城内各所で工事中(普請・作事)が行われていたということになる。対朝倉方の本陣として使用し、六角承禎や使者との会見も宇佐山城で行われていることから、そのような工事がなされていた可能性は低いであろう。

現在残る縄張りは明智光秀によって成立した可能性が高い

元亀元年(1570)12月、朝倉・浅井方と和睦が整い、信長は退城した。信長の在城期間はわずかに2カ月余りにして、宇佐山城は明智光秀に与えられた。光秀は坂本城を築き移るまで、約2年間にわたって本拠とした。光秀期の宇佐山城は、連歌会が催されたり、公家が来訪するなど信長期に存在した施設が引き続き使用されていたと考えられている。また、調略によって味方に引き入れた在地土豪の和田氏の軍勢を城内に駐屯させていることから、城内施設も信長期よりもさらに充実していたと考えられる。登城者に対して印象的に映る石垣がこの段階で築かれた可能性も高いだろう。したがって筆者は、今見られる縄張りが成立した時期は明智光秀の段階であったというのが、もっとも蓋然性が高いのではないかと考える。

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宇佐山城から見る琵琶湖

夕暮れの琵琶湖をながめて

宇佐山城から見る、夕暮れ時の琵琶湖である。2018年3月28日、大森城からスタートして井元城、布施山城、佐生城、瓶割山城、そして宇佐山城へと巡った。織豊系陣城から六角氏が築城に携わった城を経て、最後はまた織豊系城郭へと回帰した?一日となった。中身の濃い一日であったが、まだ湖国の城巡りは、はじまったばかりである。さて、第Ⅱ章からは城友と共に城を巡ることになる。こうして夕日を眺めている筆者には第Ⅱ章以降の展開が予想できるはずもなかった。まずは、ここで湖国の城を巡る 第Ⅰ章 湖東編の筆をおきたいと思う。

 


湖国の城を巡る 第Ⅰ章 湖東編・参考文献


林家辰三郎 ・編(1979)『新修・大津市史 2』大津市役所
児玉幸多・監(1980)『日本城郭体系11』新人物往来社
マキノ町誌編纂委員会(1987)『マキノ町誌』マキノ町
戦国合戦史研究会(1988)『戦国合戦大事典 5』新人物往来社
今谷明・編(1988)『室町幕府守護職家事典 下』新人物往来社
中井均・編(2006)『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版
城郭談話会・編(2014)『図解・近畿の城郭Ⅰ』中井均・監 戎光祥出版
城郭談話会・編(2017)『織豊系城郭とは何か・その成果と課題』村田修三監・戎光祥出版
新谷和之(2018)『戦国期六角氏権力と地域社会』思文閣出版
かみゆ歴史編集部(2018) 『廃城をゆく6』イカロス出版