第Ⅱ章 湖南編② 小堤城山城 後編

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小堤城山城 写真位置

(踏査作図・福永清治氏 環境基本計画 自然山部会)

 

前稿写真位置⑦の曲輪から北東の支尾根に展開する曲輪へと向かうこととした。

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写真位置⑧の堀切

前稿写真位置⑦との間は堀切で遮断されている。隣の西側の尾根も同様であり支尾根の曲輪が落とされても主要部との間は隔絶させておくという意図なのであろう。

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写真位置⑨の曲輪

主要部から堀切で隔てられた、これら支尾根の曲輪への往来は当時は木橋を用いたのであろう。

二段で構成されたこの曲輪には、山躑躅が綺麗に咲いていた。
2018年は桜が花を咲かせていた時期は短かく、そして夏は酷暑であった。
翌2019年は夏の訪れが遅く、桜の花が比較的長く咲き続けて筆者の目を楽しませてくれた。
2020年、今年の春は新型コロナウィルスが猛威を奮っている。経済は混沌とするだろうし、生活様式も今までと大きく変わってくるかもしれない。今は、この先に待ち受ける未来の行方を知るすべもない。

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写真位置⑩の石垣

西側斜面には上部は欠落しているが3mに近い高石垣が残されていた。 

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写真位置⑪の曲輪

次に北西尾根の曲輪へと向かった。前述したとおり、ここも北東尾根同様に前稿の曲輪⑦との間は堀切で遮断されている。曲輪内はきれいに整備され、ちょうど腰を掛けることのできる切株があったので座って軽く食事を摂った。時間を見ると午後2時前で、当城の見学すべき所もまだ山上曲輪群などが残っており、はやめに切り上げて先を急ぐことにした。なお、この曲輪の北東斜面には当城でもっとも状態の良い石垣が残されている。

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写真位置⑫の石垣

上写真がその石垣で、石垣見学のために遊歩道が設けられている。隅部は算木積みが意識され大きめの石が使用されている。

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写真位置⑬の曲輪

 筆者らは城山山頂へと向かうことにした。山頂部から伸びる東西の尾根には腰郭が連続している。造成される切岸は低いものであるが、部分的に石積みを使用していた痕跡が見うけられる。

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写真位置⑭ 城山山頂(主郭か)

城山山頂は山麓からの比高は180mを測る。現地案内板では主郭(本丸)と表記されていないが、当城の最も高い位置にあり戦略的にも指揮所としての意味合いも大きいと考えられることから、ここが本来の主郭(本丸)に相当するのではないだろうか。

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写真位置⑮の石垣

山頂部の写真位置⑭の南東にある石垣である。
隅部は算木積みが意識されつつあり、使用される石はやや小ぶりである。
割って薄く加工したであろうと思われる石が特徴的である。

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写真位置⑯の曲輪

当城の南東の尾根を辿ると古城山に至る。そこには岩倉城とも呼ばれる城がある。
その古城山との境目でもある鞍部に向けては、4段ほどの腰曲輪がある。いずれも削平状態は悪く、なかには剥き出しの岩が切岸の役目を果たしている。それが上写真である。

筆者らは道中の案内に従い、古城山へと向かった。