第Ⅱ章 湖南編⑤ 秀次館

八幡山城の平時の居館、秀次館跡へ

八幡山ロープウェーを降り立った筆者らは、山麓の平時の居館跡、秀次館跡に向かった。
筆者は山上の八幡山城には幾度か訪れたことがあるが、山麓の居館跡に訪れるのは初めてである。そのため、既に訪れたことのある女史に先導をお願いした。
秀次館は山上・八幡山城の本丸と西の丸の間の谷筋を降った場所に位置する。
当時の織豊系城郭が居住部と防御部を一体化する傾向であったのに対して、八幡山城および秀次居館は、それらが独立して存在することが指摘される。
築城の始まる天正13年(1585)の前年、天正12年(1584)3月から11月にかけて羽柴秀吉は、徳川家康織田信雄連合軍と合戦をおこなっている(小牧長久手の戦い)。
秀次が近江に封じられた際に付けられた宿老、堀尾・中村・山内らは佐和山城水口岡山城長浜城等の拠点城郭に配置され、八幡山城および宿老らの城郭の配置は明らかに東国の家康を意識したものであることがわかる。女史に先導いただき、山麓のロープウェイ駅から西に5分ほど歩くと八幡公園の入り口が見えてきた。

元は公園内も居館跡の一部であったが、今では図書館や広場、あずま屋なとが作られ、市民の憩いの場として整備されている。

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八幡公園前の案内板

入り口には居館跡の概略を示した案内板があった。(下記の写真位置を加筆)

 

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写真位置①の豊臣秀次銅像

公園中央には城主であった豊臣秀次銅像が建てられている。
天正18年(1590)秀吉は関東の北条氏を滅ぼし天下統一を果たした。秀次は北条攻めで戦功を挙げ、尾張清州に加増転封された。翌天正19年(1592)には秀吉より関白の座を譲られて、聚楽第を京での邸宅としている。文禄4年(1595)7月、秀吉より謀反の嫌疑をかけられた秀次は高野山に送られ、山内の青巌寺(現:金剛峯寺)の柳の間で切腹した。
切腹の前後には、秀次の家臣や関係の深かった大名らが処罰され、翌8月には京都三条河原で秀次の妻子らも処刑された。処刑の様子や、その後の仕打ちは惨いものであったと伝えられる。
また、秀吉は物的にも秀次の存在した痕跡を消そえうとした。京での邸宅としていた聚楽第および過去に居城としていた八幡山城と秀次館を破却したのである。

秀次館の石垣

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写真位置②の石垣

公園を通り抜け、大手道に出て秀次居館跡を見学することにした。
大手道の両サイドには、段状に家臣の屋敷跡であったと思われる削平地が築かれている。
それらの多くは竹林の中にあるが、大手道からもその様子を伺うことができる。
区画するための切岸部には石垣が用いられていた。

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写真位置③の削平地と石垣

秀次館の中で最も綺麗に整備されている場所である。
八幡山城および秀次館は瓦葺の建物が建てられていたと推測される。
発掘の成果および表採から、使用される瓦は山上の城の方が古式で、居館部は新しい様式であったことが知られている(山上部はコビキA、居館部はB)。さらに居館部からは金箔瓦も検出されたという。

秀次の屋敷跡へ

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写真位置④ 屋敷跡の枡形虎口の石垣

さらに登ると、巨大な食い違い状の内枡形虎口が見えてきた。
平時の居館であるとはいえ、出入り口は極めて軍事性の高いつくりとなっている。

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写真位置⑤ 秀次の屋敷跡

最上部は整備こそされていないが、広大な面積となっている。
ここが秀次の屋敷跡であったと、推定される。
山上の八幡山城及び居館部は文禄4年(1595)に破却された後、再び城郭および居館として使用されることはなかった。

八幡山城および秀次館の破却

城を破壊する「破城」という行為は、石垣上部や隅部を崩したり虎口を破壊することが多い。
例えば、筆者の研究のフィールドである丹波で秀吉に関わる時代に破却された城を例にとれば、黒井城、周山城等がそれにあたるだろう。
しかし、山上の八幡山城を見学した限り、それらの傾向は、あまり見られない。そう考えると建物の破壊や持ち出しといった軽微なものにとどまったと思えなくもない。

近年、秀次の屋敷跡と推定される最上部で発掘調査が実施され、それらを覆すような成果が見られた。
建物破却後に砕いた瓦を屋敷跡の地表面に並べ、固い粘土を用いて屋敷跡を覆っていたことが明らかとなったのである。屋敷跡の再利用はおろか、秀次の生活の痕跡を閉じ込めるような行為である。

秀吉をそこまで憎悪の念に駆らせた理由とは何だったのだろうか。
史料から読み解く歴史研究も進んでいる。しかし彼の心の内までは永遠に知るすべはないだろう。

城・館を含めて5か所を巡った湖南編

湖国の城を巡る 第Ⅱ章 湖南編」では多喜山城から、この秀次館まで計5か所を巡った。
同行していただいた女史には各城の先導を頂くなど、道中大変お世話になった。

この場を借りて厚くお礼申し上げます。
また、機会を見つけて色々な城に、ご一緒できればと思う次第である。

 「湖国の城を巡る 第Ⅱ章 湖南編」 完


湖国の城を巡る 第Ⅱ章 湖南編・参考書籍

平凡社・編(1997)  『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』平凡社
野洲町立歴史民俗資料館・編(1998)『国宝大笹原神社の歴史と美術』野洲町立歴史民俗資料館
滋賀県教育委員会近江八幡市教育委員会・編(2011)『埋蔵文化財活用ブックレット12(近江の城郭7)八幡山城跡』 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
城郭談話会・編(2014)『図解・近畿の城郭Ⅰ』中井均・監 戎光祥出版
新谷和之(2018)『戦国期六角氏権力と地域社会』思文閣出版
中井均・編(2019)『近江の山城を歩く』サンライズ出版