第Ⅱ章 湖南編② 小堤城山城 前編

織豊期以前の石垣が明瞭に残される小堤城山城へ

2018年4月5日、多喜山城に続いて野洲市小堤にある小堤城山城に訪れた。

観音寺城同様に織豊期以前の石垣が明瞭に残されている城として知られ、「第Ⅱ章 湖南編」のメインとして訪れたいと思っていた。
林道終点のゲートより登城口まで徒歩で向かった。同行していただいた女史が、当城に初めて訪れるのにも関わらず先導していただいたおかげで登城口までたどりつけた。
ゲートより登城口までは約20分程であったが、中々わかりづらく、筆者だけで訪れていたならば諦めてほかの城へと行ってしまったかもしれない。

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小堤城山城 登城口

城主・永原氏

当城は、滋賀県野洲市小堤の城山(標高286m・比高180m)に築かれ、城主は永原氏を伝える。
永原氏は、野洲郡を拠点とした在地国人で、15世紀には六角氏の野洲郡の郡奉行であった馬淵氏の被官として行動していた。16世紀中頃には何らかの影響で勢力を減衰させた馬淵氏との被官関係を解消して、六角氏と直接被官関係を結んでいる。これは永原氏の勢力拡大とともに馬淵氏からの独立を指向していた結果とみてよいだろう。また、室町幕府への忠節を尽くし、幕府からも所領の安堵を受け六角氏と足利幕府との二重の主従性をも保っていた。中央権門との繋がりあいがあったことも知られ、野洲郡の本拠近くにあった京都相国寺の寺領・玉造荘の運営についても相国寺に対し協力をしている。

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小堤城山城 写真位置

上図は小堤城山城主郭に設置された案内図である。
(踏査作図・福永清治氏 環境基本計画 自然山部会)
北側から歩いて登ったため、わかりやすいように南北を逆転し、モノクロ撮影し下記写真位置を赤字にて加筆している。

きわめて規模の大きな城で、当城の縄張には、石垣の構築など六角氏の観音寺城との共通性が見られる。
そのため、六角氏の支持のもとに築かれた城郭であるとも指摘されている。

城跡コース(遊歩道)を進む

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写真位置①の腰曲輪群

登城口から城跡ルートとされる遊歩道を進むと、両サイドに規模の大きな腰郭が連続している。
これらの腰郭群に牽制・監視されながら主郭方向に進んでいくことになり、
この遊歩道は当時からのルートを踏襲しているようである。

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写真位置②の通路の石垣

5分ほど歩くと、通路の両サイドの崩落を防止するための石垣がある。
観音寺城同様に大きな石を使用しているのも当城の特徴の一つである。

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写真位置③の二段に積まれた石垣

高石垣とせず、二段に分けて積まれている。下段の右側の石をよく見ると矢穴を用いて割っているものが見える。石を分割する矢穴技法は六角氏の観音寺城と同様のもので、「観音寺城技法」とも呼ばれ、近世城郭には見られない独自の技法である。



中心部である主郭部へ

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写真位置④の曲輪

谷部に設けられた広い曲輪で、上位の三方の曲輪から見下ろされる位置にある。
この曲輪から上位の曲輪に向かうには切岸に付けられた石段を登っていくことになる。
現地の案内板では主郭とされているが、民衆の争論解決に使われるような大きな広場的な場所に見え、城主と対面する儀礼的な意味を持つ曲輪だったのではないてだろうか。

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写真位置⑤の石段

一見すると崩れた石垣のように見えるが、近づいてみると階段状に組まれていることがわかる。一直線上に上位の曲輪⑦の入り口、枡形虎口⑥へとつながる。
このような石段の使い方は観音寺城の本丸へと続く石段を模倣しているようにも見える。

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写真位置⑥の枡形虎口

土砂の流入や堆積でやや埋まっているが、四角い形状の枡形虎口であったことが伺える。
石材が散乱しており当時は石組みされた虎口だったのであろう。
この虎口からは上写真位置④の曲輪を見下ろすことができる。
石段上から見降ろすというものからは、身分差の関係性が考えられるのではないだろうか。

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写真位置⑦の曲輪

南北に長い長方形状の曲輪で、北側に櫓台状の高まりがある。この曲輪は南の山頂部曲輪群および北西・北東尾根筋の曲輪群への分岐点となっている。


次稿では明瞭な石垣遺構を残す曲輪へと向かっていきたい。

 

執筆者よりお知らせ

第Ⅱ章 湖南編①の多喜山城の記事が何らかの事情で消えてしまいました。

多喜山城の原稿が今は手元にあらず、今後執筆すべき城郭が多くあるため

「第Ⅱ章 湖南編①多喜山城」の再掲は予定しておりません。あしからずご了承下さい。