第Ⅱ章 湖南編③ 古城山城

小堤城山城の尾根続きにある古城山城へ

前稿、小堤城山城の南東尾根の曲輪群から続く尾根道を歩いて、古城山へと向かった。
途中、道は土橋状に細くなり堀切状の遺構が見えた。
さらに進むとやがて城内への出入り口である虎口が見え、その傍らには説明版が設置されていた。

f:id:miyakemasaru:20200508170410j:plain

城内に入る虎口

当城は正安2年(1300)、もしくは応永8年(1401)に六角氏による築城と伝えられるが、詳細な歴史は定かではない。(本稿では呼称を古城山城として統一する)

古城山城と桜本坊

六角氏は被官の蒲生郡野洲郡の郡奉行である馬淵氏に守らせたという。
馬淵氏は16世紀中頃には何らかの影響で勢力が衰え、被官の永原氏が野洲郡で勢力を拡大した。
永原氏は馬淵氏を介さず直接、近江守護の六角氏の被官となって、尾根続きで古城山北東に位置する城山に小堤城山城を築き本拠とした。
小堤城山城との間を完全に遮断されていない古城山城は、以降出城として機能したと推察される。

また、古城山には応永年間(1394〜1428)に北東に位置する岩蔵寺の坊舎、桜本坊が造られた。
明治時代に至って、桜本坊神仏分離令によって神道化され、呼称を桜本社と変更され明治27年には瓦葺の社殿が建立された。
当城の城域の中にはその当時のものである瓦を散見することができる。

f:id:miyakemasaru:20200508184819j:plain

主要部を囲む土塁

当城は南北に長いコの字状の尾根筋に曲輪を造成した縄張りで、北側の山頂部が主要部である。虎口より内部に入ってみると、主要部は土塁に囲まれていることがわかった。
この土塁は、軍事的な意味とともに、立地が山頂部ということで風よけとしても考えられたのではないだろうか。

f:id:miyakemasaru:20200508170633j:plain

城内で一番広い曲輪

この曲輪は城内で最も広い削平地である。中央には、桜本社の痕跡と思われる石積みと瓦が残されている。
上写真、向かって左側の高い切岸上は1段高くなって曲輪が造成されている。
その曲輪の端部は上述した主要部を囲む土塁となっており土塁の一部を外側に張り出させ、筆者らが入ってきた虎口からの侵入者を牽制している。
これを見れば、当城が軍事的な施設であることが頷よう。

f:id:miyakemasaru:20200508184937j:plain

桜本池

当城の中心部には溜池の痕跡とも思える水たまりがある。
桜本池と呼ばれ、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられている。
広い居住スペースと水源を伴っており、一定の生活を営むことができたのではないだろうか。

f:id:miyakemasaru:20200508185323j:plain

北東部谷筋

城域の北東部谷筋である。中央部は土塁の仕切りに開口部を設けた虎口状の遺構があった。当城は南西部が一番高くなり、この谷筋は雨水の排出先としても考えられたのであろう。

古城山城とは何だったのか

今残る遺構と城主・馬淵氏の動向を踏まえて当城を考えてみたい。
馬淵氏は、南北朝時代以降、六角氏の野洲郡の郡奉行として郡内の権益を獲得していった。
永徳3年(1383)に野洲郡の散所を押領しているのが、その一例である。
六角氏による築城との伝承があるが、実質的に郡内の支配は馬淵氏によって担われていたと考えて良いだろう。
当城の築城の夫役は同郡内から徴発されたはずで、馬淵氏が築城に大きく関わっていたことだろう。
古城山北東に位置する天台宗岩蔵寺は応永年間(1394~1428)に馬淵氏の祈願寺として再興され、二百石の田地を寄進され六坊が造営されたという。
その六坊の一つが、当城にあったとされる桜本坊である。岩蔵寺は馬淵氏と密接な関係を持ち、坊舎と城郭が併存していた可能性も否定できない。
ただ大土塁、横矢の張り出しなど現在残る軍事的な遺構は馬淵氏が築いたものではなく、小堤城山城の出城となった時に改修されたものと考えられる。
桜本坊は馬淵氏が没落し、小堤城山城が廃された後も存続していたと考えられ、当城はその際の改変も受けていると思われる。
ふと、スマートフォンで時間を見ると、すでに15時であった。筆者らは次の訪城先である、近江八幡山城へと急ぐことにした。