荒木城 中心部を歩く

f:id:miyakemasaru:20190517114735j:plain

荒木城 縄張り図

本稿では、荒木城の中心部である本丸方向へと向かってみたいと思う。
本丸周辺の縄張りは、支尾根に展開する曲輪群とは一線を画して技巧的な縄張となっている。

 

f:id:miyakemasaru:20190517114816j:plain

写真位置⑨の坂虎口

二折れする坂虎口を採用しており、上位曲輪の⑪の塁線からは侵入者の側面を攻撃する横矢が掛る。同じく上位曲輪の⑩からは、この坂虎口⑨を通過する者を常に監視できるようになっている。

 

f:id:miyakemasaru:20190517115124j:plain

写真位置⑩の曲輪

郭⑩である。当ブログ「整備された荒木城」で見られる2mにわたる堆積した伐採木等は除去され、曲輪内に入って山麓を見渡すことができる。また、この曲輪は本丸をはじめ、北、南に展開する曲輪群への分岐点にもなっている。

 

f:id:miyakemasaru:20190517115222j:plain

写真位置⑪の曲輪

本丸との間は、低い切岸で区画されている。

 

f:id:miyakemasaru:20190517115310j:plain

写真位置⑫ 本丸

荒木城の中心部である本丸⑫である。山頂に位置し、当城の曲輪では最も広い面積を有する。樹木が伐採され見渡しが良くなったが、曲輪内には直射日光があたり、灌木が繁茂する可能性がある。それを防ぐには定期的な整備、及び日陰を作ることができる一定の樹木を成長させる必要性が求められる。

 

f:id:miyakemasaru:20190517115355j:plain

写真位置⑬の曲輪

本丸とは低い切岸と土塁で区画されている。西側にある枡形虎口からて下位の曲輪へと通路がつながる。

 

f:id:miyakemasaru:20190517115516j:plain

写真位置⑭の曲輪

本丸⑫とは高い切岸で隔てられている。現在は切岸に付けられた道が本丸へとつながっている。日陰になる高い木が無く、本丸同様に定期的な整備が必要であろう。

 

f:id:miyakemasaru:20190517115557j:plain

写真位置⑮の曲輪

高い木は伐採されず、適切な状態で遺構が保存されている。

次項では南東尾根の曲輪群へと向かってみたい。

荒木城 南西尾根の曲輪群を歩く

f:id:miyakemasaru:20190507224413j:plain

荒木城縄張り図 三宅 勝・作図

山上部へと歩いてゆく

本稿より、荒木城の山上部の遺構を見ていきたい。

 

f:id:miyakemasaru:20190507225123j:plain

写真位置①の郭

山上部への登山道は細工所砦背後の尾根筋に整備され、本丸までの所要時間を示す案内板が随所に立てられている。約15分ほど登山道を歩くと写真位置①の郭へと到達するが、途中の尾根筋にも削平地らしきものを見ることができる。いずれも郭の跡であろう。

 

f:id:miyakemasaru:20190507225204j:plain

写真位置②の郭

後世に登山道をつけた際、郭の一部を欠損させてしまったのか中央部が凹んでいる。本丸方向へは北側の尾根を登ることになるが、さらに南西側の尾根筋にも郭群が展開しているので、まず、その郭群を見学してみたい。

南西尾根の腰郭群

f:id:miyakemasaru:20190507225254j:plain

写真位置③の郭

南北に長く写真位置②の郭とは屈折した登り土塁状のものを往来のためのルートとして用いたようである。

f:id:miyakemasaru:20190507225319j:plain

写真位置④の郭

写真位置③の郭とは高い切岸と小さな腰郭状の削平地で隔てられている。写真位置③の郭へは、東側に回り込んだ登ったと考えられる。

 

f:id:miyakemasaru:20190507225356j:plain

写真位置⑤の堀切

堀底の西側は竪堀状に落とし込んであるが一方、東側は帯状の郭としている。堀切は塹壕として使用する意図があり、東側の帯状の郭は、上位の写真位置④の郭へのルートとして使用したのではないだろうか。

この南側にも小規模な腰郭が連続しているが、城郭遺構かの判断は難しい。

急峻な切岸につけられた道を登り本丸方向へと

f:id:miyakemasaru:20190507225505j:plain

写真位置⑥の郭

南尾根の郭群を見学した後、北側の本丸方向へと歩いてみた。途中、細い馬の背状の尾根道を歩くと、高い切岸が目に入る。足元には歩きやすいように段差が付けられているが、本来のルートではないだろう。

登りきると写真位置⑥の郭に入るが、これより北が荒木城の中心部と考えられる。

f:id:miyakemasaru:20190507225616j:plain

写真位置⑦の切岸

写真位置⑥の郭から北には、さらにもう一段、腰郭が造成されている。先の郭同様に、この写真位置⑦の切岸にも道が付けられているが、写真位置⑥から⑧までの本来のルートは不明である。切岸の角度は、さらに急峻となり上り難いためにロープが付けられている。

f:id:miyakemasaru:20190507225725j:plain

写真位置⑧の郭

登りきったところが、この写真位置⑧の郭である。この先には切岸に屈折したルートを設けて本丸方向へと続いてゆく。

次項から、荒木城の中枢部である本丸へと向かってみたい。

 

 

細工所砦

山麓の案内板に従い登山口へ

本稿より、荒木城へと向かってみたい。

荒木城は篠山市の細工所集落の背後の山上に築かれている。
本丸は標高404mの位置にあり、集落からの比高差は170mを測る。

f:id:miyakemasaru:20190507194734j:plain

2013年撮影 ハートピアセンターから見る荒木城

上写真は2013年に撮影したもので、細工所のハートピアセンターから見る荒木城である。

2013年当時は、荒木城という案内板はなく、当地の地名を冠した細工所城という名で親しまれていた。

現在は城主であった荒木氏に因んだ荒木城という名で山麓に案内板等が設置されている。なお『信長公記』や当時の文書には「荒木山城守館」と記される。

f:id:miyakemasaru:20190507195021j:plain

荒木城 登山口

山麓の登山口である。案内板が設置され荒木城への登山口であることがわかりやすい。

織田方が築いたとされる細工所砦

f:id:miyakemasaru:20190509120238j:plain

細工所砦 鳥観図

 

f:id:miyakemasaru:20190507195126j:plain

写真位置① 枡形虎口

登山口から登ること5分弱、やがて登山道は直進せず左に折れるように進む。
天正6年、織田方が荒木城を攻略した際に兵を置いたとされる細工所砦の枡形虎口跡である。

f:id:miyakemasaru:20190507195327j:plain

写真位置② 平坦地

虎口より内部に入ると、広い平坦地が広がり、織田方が兵を駐屯させていたというのも頷けそうである。また、伝承では荒木氏の館跡であるともいわれる。
篠山市内における在地勢力の城郭には、山麓部及び山上部の二か所に城郭遺構を残すものが見られる。その形態の城郭は二段式詰城という概念で捉えられる。
細工所砦と荒木城の位置関係や細工所砦の縄張りも、それによく似た形態にも見える。

f:id:miyakemasaru:20190507195558j:plain

写真位置③ 櫓台

東端は、高さ5mを超える櫓台状の遺構がある。櫓台上には祠があり、平坦地から参拝の為とみられる道が付けられている。

 

f:id:miyakemasaru:20190507200408j:plain

写真位置④ 櫓台背後の堀切

櫓台の背後は堀切で遮断され、その先は荒木城へと繋がる尾根筋となる。細工所砦側の方が堀切底から高く登り難いため、細工所砦単体の防御の為に、築かれたと考えられよう。

この堀切のサイドから荒木城への登城道が繋がり、案内板が設置されている。

次稿から、荒木城本城へと向かってみたい。

整備された荒木城


2020年の大河ドラマ丹波で躍動した明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」に決まった。どのように光秀と丹波の関わり合いについて描かれるかにも注目したい。
筆者は光秀が丹波攻めの攻略対象とした城では、2007年冬に波多野氏の本拠、丹波八上城に訪れたことを思い出す。
そこから長らくの間、今に至るまで丹波の山城との付き合いが続いている。
荒木城は、その丹波の城の1つで篠山市東部に位置し、城主は八上城の波多野氏に従った国人・荒木氏である。

f:id:miyakemasaru:20190503143505j:plain

荒木城縄張り図



荒木氏は波多野氏の一族と言われるが、実際の出自等はよくわかってはいない。

また、本拠の荒木城を永禄年間に築城したと伝えられるが、そのいきさつも不明である。
荒木城については天正年間に至り、確実な歴史が史料に残されることになる。
信長の一代記『信長公記』等に明智光秀による第二次丹波侵攻戦にて、天正六年四月、明智・滝川・丹羽の三氏により攻められ、水の手押さえられ落城したという事実である。時の城主は荒木氏綱で、この攻城戦では大激戦が繰り広げたとされ、その様子を伝えた「井串極楽、細工所地獄、塩岡岩ヶ鼻立ち地獄」という俗謡が残されている。
詳しい歴史や縄張り解説については『図解近畿の城郭Ⅲ』で取り上げたので是非、ご一読いただければ幸いである。
従来、荒木城は地元の方により登山道が整備され、土地の名を冠した細工所城と言う名前で親しまれてきた。
城址の整備については、必要な箇所を適宜伐採した日本各地に残される一般的な山城の様相を呈していた。

中央は灌木が茂り、両端部は見通せないが、
背の高い木々が適度な日陰をつくり、下草は、あまり繁茂していない。

f:id:miyakemasaru:20190503145105j:plain

2013年10月撮影 本丸 写真位置①

中央は灌木が茂り、両端部は見通せないが、
背の高い木々が適度な日陰をつくり、下草は、あまり繁茂していない。

 

f:id:miyakemasaru:20190503144039j:plain

2010年2月撮影 写真位置②の郭

 
適度な日陰があり、本丸同様に下草はあまりみられない。

 

f:id:miyakemasaru:20190503181702j:plain

2013年3月撮影 写真位置③の郭

矢竹がやや繁茂した場所であったが、
内部にも十分足を踏み入れることができた。



このような荒木城に変化をもたらしたのは2016年春の多紀3小学校の閉校記念合同事情(狼煙プロジェクト)である。
その際に本丸一体は大規模に伐採が行われた。伐採は狼煙をあげ、それを見やすくすることを第一義としたもので、城址整備のためのものではなかった。
そのため伐採された木々や、それに付随する枝等が本丸を除いた郭に残された。
現在各種ホームページやブログ等で荒木城が紹介されている多くのものは、そのプロジェクト直後に登城したもの、もしくはプロジェクト前のものを掲載したものである。一部のブログではその状態を批判さえしているものもある。

 

f:id:miyakemasaru:20190503183408j:plain

2017年8月撮影 本丸 写真位置①

灌木さらには背の高い太い木々も伐採され、
郭の東西も見渡せるようになった。
しかし日陰が少なくなり、下草が繁茂する状態となっている。
2017年の10月には下草は伐採されており、良好な状態になっていた。


このような状況を鑑みて2016年夏より地元&有志により城址の整備が始まった。
整備は約1年間にわたり継続されたものとみられ、今では篠山市で最も美しく整備された城となっている。

f:id:miyakemasaru:20190503183954j:plain

2016年8月撮影 写真位置②の郭

木々が伐採され、山麓が見渡せるようになっている。
伐採された木々が郭内に、そのまま、放置された状態であった。

 

f:id:miyakemasaru:20190503184156j:plain

2017年8月撮影 写真位置2の郭

郭内に放置されていた木々は適切な長さに切られ、一か所にまとめ、整理されている。

 

f:id:miyakemasaru:20190503184720j:plain

2016年8月撮影 写真位置③の郭

伐採された木とそれに付随していた枝が高さ約2mにわたり堆積していた。

 

f:id:miyakemasaru:20190503185105j:plain

2017年撮影 写真位置④の郭

2mにわたり堆積していた木や枝は取り除かれ、良好な状態となっている。

 

f:id:miyakemasaru:20190503185438j:plain

2016年8月撮影 写真位置④の郭

伐採された木々がそのまま放置され、郭内に入ることすら困難であった。

 

f:id:miyakemasaru:20190503185648j:plain

2017年8月撮影 写真位置④の郭

木々は、適切な長さにカットされ集約されている。

大雨・巨大台風・大雪を始めとした昨今の異常気象では再び城址が荒れる恐れがあり、整備は継続して行う必要がある。
筆者はこれからも整備保存活動が継続して行えることを願ってやまない。


さてそのような荒木城を次回からは山麓より登ってみたいと思う。

著作物の取り扱いについて

当ブログ・著作物の取り扱いについて

本稿では当ブログ運営上の著作物の取り扱いについて記していきたい。
当ブログでは、筆者が描いた縄張り図、鳥観図、並びに現地の案内板(説明版)を使用し城郭の紹介を行う。(筆者が描いた縄張り図、鳥観図の使用に関しては下記に記載)
昨今、城郭を紹介するブログHPは大変多く、その中では、書籍等の印刷物にある縄張り図をスキャニング及び撮影して、掲載しているものがある。
作図者及び出版社からの使用許可を得た上での掲載であれば問題はないであろうが、無断で掲載されているものがほとんどである。それらは著作権法に抵触している。註1
当ブログでは、訪れた全ての城の縄張り図は制作してはいない。

しかし閲覧いただく皆様には、わかりやすく紹介したい。
その為、上記のように書籍等の印刷物や他WEB上にあるものは使わず、筆者が描いた縄張り図、鳥観図、並びに現地の案内板(説明版)を使用していきたい。
現地案内板を使用する場合は著作権法の都合上、筆者自身が当ブログに対して以下の一定の制限をかけて使用する。註2
1. わかる場合は現地の案内板(説明版)の制作者、作図者名を明記する。
2. 着色・加工等は行わない。
3. 曲輪等の呼称に関しては案内板(説明版)に従う。註3
4. 加筆は写真を撮影した場所のみとする。(写真位置〇と記載)
5. 必要に応じて、モノクロ及びカラーにて使用。

筆者が描いた縄張り図、鳥観図の使用に関して

筆者としては見学会や、他WEBサイトにおいて作図者名を明記の上で使用される場合は全く異論はない。城郭啓蒙のためにぜひ活用いただければと思っている。

註1 著作権法第三十二条第一項に例外として条件付きで「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ報道、批評、研究その他の目的上、正当な範囲内で行わなければならない」とある。筆者は城郭紹介のWEBサイト及びブログでの使用は、例外としての正当な範囲内に当てはまるものではないと考える。
註2 著作権法第46条(公開の美術の著作物等の利用)

註3 呼称がない場合は、文中に筆者が呼称を記載する場合もある。


引用・参考文献 
高田 徹 2006「縄張り図と著作権 ―いくつかの事例を通して―」
     戦乱の空間編集会『戦乱の空間第5号』

 

 

 

公式ブログの再スタート

はじめに

9年間、書き続けていたyahooブログが本年末でサービス終了するとのアナウンスがあった。

いくつかのブログサービスを比較して選んだのが、当Hatena Blogである。

当ブログでは9年間の成果を踏まえつつ、新たな城郭観をもって書き綴っていきたいと思う。

 

コンセプト

訪れた城郭を、筆者が描いた縄張り図、鳥観図、並びに現地の案内板(説明版)を使用し、城郭の紹介を行っていきたい。

現地で撮影した写真を利用するが、それも、どの位置を撮影したかを明確にしていきたいと思う。

 また、筆者が参加した歴史・城郭に関するイベントや日々の話題も投稿する予定である。

ともかくも楽しく見ていただければ幸いである。

 

当ブログを今後ともよろしくお願いいたします。 

筆者・三宅 勝