荒木城 北西尾根の曲輪群を歩く

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荒木城 縄張り図

荒木城中心部から北西尾根へ

本稿では、北西尾根の曲輪群を歩いていく。

北西尾根郭群へは、「荒木城中心部を歩く」で紹介した曲輪⑩の北東方向に、スロープ状の通路がある。そこを降り、北西に続く道を歩けば写真位置㉒の堀切に到達する。

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写真位置㉒の堀切

本丸方面とを遮断する目的で掘られたと考えられる。
堀底は広く、堆積物の影響であろうか浅い印象がある。よく目を凝らしてみると西側には土橋の痕跡らしきものが確認できる。

細尾根に築かれた曲輪群

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写真位置㉓の尾根筋を削り出した土橋状の通路

尾根筋を削り、人が一人通過できるくらいの幅しかない。両サイドは切り立った崖となっている。大人数を渡らせず攻城軍の突進力を削ぐ工夫であろう。

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写真位置㉔の細尾根に築かれた曲輪

 北西尾根の曲輪群は、細い尾根筋を利用し部分的に櫓台状の土塁を用いたものが多数みられる。

 

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写真位置㉕の曲輪

 北西尾根曲輪群の末端部に位置し、鶏卵状に形成されており東側に土塁を用いる。本丸方向に対して、土塁を開口して築いた虎口が見られる。
侵入者が北西尾根の曲輪上に到達したとき、曲輪㉕が単体でも機能できるように虎口を設けたのではないだろうか。周囲には尾根筋からの侵入者の拡散を防ぐため、竪堀が多数、掘られている。ここより南西の尾根筋にも曲輪跡らしき痕跡が多数見られる。

これは、荒木城の籠城戦が兵士のみではなく、多数の住民をも巻き込んだ戦いであった証左の一つであろうか。

 戦国期の遺構を今に伝える重要な史跡 荒木城跡

「整備された荒木城」と「細工所砦」を含めると全6回にわたり荒木城跡を見てきた。

一旦は荒廃しながらも有志・地元の方々の協力によって、素晴らしい状況へと復活した。

当城は、戦国期の遺構を今に伝える重要な史跡であり、歴史的にも織田信長の一代記『信長公記』に登場する城郭でもある。

是非、篠山市に訪れる機会があれば足を伸ばしていただければ幸いである。 

南東尾根の曲輪群を歩く

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荒木城 縄張り図

中心部から南東の尾根に展開する曲輪群へ

本稿では、本丸から南東方向の尾根に連なる曲輪群へと歩いていきたい。
江戸時代中頃に成立した地誌『丹波志』では、この南東の曲輪群側を大手としている。
ゆえに中心部に次いでやや技巧的な縄張も垣間見ることができる。

 

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写真位置⑯の曲輪

この曲輪は、前稿「荒木城中心部を歩く」の写真位置⑬の曲輪西側にある枡形虎口から続く道を降ってきた所に位置する。この曲輪からは鉄砲丸を望むことができる。

荒木城攻めの付け城・鉄砲丸

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荒木城から望む鉄砲丸

天正6年(1578年)4月、明智・滝川・丹羽が荒木城を攻撃する際、荒木城東方の山上に付城を築いた。それが鉄砲丸である。織田方は鉄砲丸から、荒木城に向けて鉄砲を放ったという。上記写真の山頂部に鉄砲丸があるというが、筆者はまだ訪れたことがない。

伝・大手側の曲輪群

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写真位置⑰の堀切

現在、曲輪⑯からは直接切岸に道が付けられ、ここへと降りるようになっている。堀切⑰の西側には、もう一本道があり、それを辿ると前稿「荒木城中心部を歩く」の写真位置⑬の曲輪西側の枡形虎口手前へと繋がる。現在は枡形虎口手前が若干崩れて登り難くなっているが、荒木城が機能した頃の本来の城道は、堀切⑰西側の道であろうと筆者は考える。

 

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写真位置⑱の尾根筋を削り出した通路

人工的に尾根筋を削り出し、一度に多人数が通過できないように工夫されてる。

 

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写真位置⑲の曲輪

南東郭群は西側の谷筋沿いに通路を作って、各曲輪間の往来に使用している。その通路脇には、規模の大きな曲輪を連続させて侵入者に備えている。

屈折した通路を作る竪堀

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写真位置⑳の竪堀

写真位置⑳の竪堀を下から撮影したものである。侵入者は城外より虎口㉑を通過して入る際、この竪堀に阻まれて直進させず、一折れさせられて城内へと導かれる。侵入者の突進力を削ぐためのひとつの工夫と考えられよう。

 

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写真位置㉑の土塁

現在は土塁中央を削り登山道としているが、本来は上述のように土塁の西側の竪堀によって屈折された通路を通って城内に入った。この写真位置㉑の虎口より山麓に向けて南に延びる尾根筋が伝・大手と言われる。
次項では、北西尾根の曲輪群に向かってみたい。

荒木城 中心部を歩く

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荒木城 縄張り図

本稿では、荒木城の中心部である本丸方向へと向かってみたいと思う。
本丸周辺の縄張りは、支尾根に展開する曲輪群とは一線を画して技巧的な縄張となっている。

 

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写真位置⑨の坂虎口

二折れする坂虎口を採用しており、上位曲輪の⑪の塁線からは侵入者の側面を攻撃する横矢が掛る。同じく上位曲輪の⑩からは、この坂虎口⑨を通過する者を常に監視できるようになっている。

 

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写真位置⑩の曲輪

郭⑩である。当ブログ「整備された荒木城」で見られる2mにわたる堆積した伐採木等は除去され、曲輪内に入って山麓を見渡すことができる。また、この曲輪は本丸をはじめ、北、南に展開する曲輪群への分岐点にもなっている。

 

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写真位置⑪の曲輪

本丸との間は、低い切岸で区画されている。

 

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写真位置⑫ 本丸

荒木城の中心部である本丸⑫である。山頂に位置し、当城の曲輪では最も広い面積を有する。樹木が伐採され見渡しが良くなったが、曲輪内には直射日光があたり、灌木が繁茂する可能性がある。それを防ぐには定期的な整備、及び日陰を作ることができる一定の樹木を成長させる必要性が求められる。

 

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写真位置⑬の曲輪

本丸とは低い切岸と土塁で区画されている。西側にある枡形虎口からて下位の曲輪へと通路がつながる。

 

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写真位置⑭の曲輪

本丸⑫とは高い切岸で隔てられている。現在は切岸に付けられた道が本丸へとつながっている。日陰になる高い木が無く、本丸同様に定期的な整備が必要であろう。

 

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写真位置⑮の曲輪

高い木は伐採されず、適切な状態で遺構が保存されている。

次項では南東尾根の曲輪群へと向かってみたい。

荒木城 南西尾根の曲輪群を歩く

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荒木城縄張り図 三宅 勝・作図

山上部へと歩いてゆく

本稿より、荒木城の山上部の遺構を見ていきたい。

 

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写真位置①の郭

山上部への登山道は細工所砦背後の尾根筋に整備され、本丸までの所要時間を示す案内板が随所に立てられている。約15分ほど登山道を歩くと写真位置①の郭へと到達するが、途中の尾根筋にも削平地らしきものを見ることができる。いずれも郭の跡であろう。

 

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写真位置②の郭

後世に登山道をつけた際、郭の一部を欠損させてしまったのか中央部が凹んでいる。本丸方向へは北側の尾根を登ることになるが、さらに南西側の尾根筋にも郭群が展開しているので、まず、その郭群を見学してみたい。

南西尾根の腰郭群

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写真位置③の郭

南北に長く写真位置②の郭とは屈折した登り土塁状のものを往来のためのルートとして用いたようである。

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写真位置④の郭

写真位置③の郭とは高い切岸と小さな腰郭状の削平地で隔てられている。写真位置③の郭へは、東側に回り込んだ登ったと考えられる。

 

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写真位置⑤の堀切

堀底の西側は竪堀状に落とし込んであるが一方、東側は帯状の郭としている。堀切は塹壕として使用する意図があり、東側の帯状の郭は、上位の写真位置④の郭へのルートとして使用したのではないだろうか。

この南側にも小規模な腰郭が連続しているが、城郭遺構かの判断は難しい。

急峻な切岸につけられた道を登り本丸方向へと

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写真位置⑥の郭

南尾根の郭群を見学した後、北側の本丸方向へと歩いてみた。途中、細い馬の背状の尾根道を歩くと、高い切岸が目に入る。足元には歩きやすいように段差が付けられているが、本来のルートではないだろう。

登りきると写真位置⑥の郭に入るが、これより北が荒木城の中心部と考えられる。

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写真位置⑦の切岸

写真位置⑥の郭から北には、さらにもう一段、腰郭が造成されている。先の郭同様に、この写真位置⑦の切岸にも道が付けられているが、写真位置⑥から⑧までの本来のルートは不明である。切岸の角度は、さらに急峻となり上り難いためにロープが付けられている。

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写真位置⑧の郭

登りきったところが、この写真位置⑧の郭である。この先には切岸に屈折したルートを設けて本丸方向へと続いてゆく。

次項から、荒木城の中枢部である本丸へと向かってみたい。

 

 

細工所砦

山麓の案内板に従い登山口へ

本稿より、荒木城へと向かってみたい。

荒木城は篠山市の細工所集落の背後の山上に築かれている。
本丸は標高404mの位置にあり、集落からの比高差は170mを測る。

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2013年撮影 ハートピアセンターから見る荒木城

上写真は2013年に撮影したもので、細工所のハートピアセンターから見る荒木城である。

2013年当時は、荒木城という案内板はなく、当地の地名を冠した細工所城という名で親しまれていた。

現在は城主であった荒木氏に因んだ荒木城という名で山麓に案内板等が設置されている。なお『信長公記』や当時の文書には「荒木山城守館」と記される。

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荒木城 登山口

山麓の登山口である。案内板が設置され荒木城への登山口であることがわかりやすい。

織田方が築いたとされる細工所砦

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細工所砦 鳥観図

 

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写真位置① 枡形虎口

登山口から登ること5分弱、やがて登山道は直進せず左に折れるように進む。
天正6年、織田方が荒木城を攻略した際に兵を置いたとされる細工所砦の枡形虎口跡である。

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写真位置② 平坦地

虎口より内部に入ると、広い平坦地が広がり、織田方が兵を駐屯させていたというのも頷けそうである。また、伝承では荒木氏の館跡であるともいわれる。
篠山市内における在地勢力の城郭には、山麓部及び山上部の二か所に城郭遺構を残すものが見られる。その形態の城郭は二段式詰城という概念で捉えられる。
細工所砦と荒木城の位置関係や細工所砦の縄張りも、それによく似た形態にも見える。

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写真位置③ 櫓台

東端は、高さ5mを超える櫓台状の遺構がある。櫓台上には祠があり、平坦地から参拝の為とみられる道が付けられている。

 

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写真位置④ 櫓台背後の堀切

櫓台の背後は堀切で遮断され、その先は荒木城へと繋がる尾根筋となる。細工所砦側の方が堀切底から高く登り難いため、細工所砦単体の防御の為に、築かれたと考えられよう。

この堀切のサイドから荒木城への登城道が繋がり、案内板が設置されている。

次稿から、荒木城本城へと向かってみたい。

整備された荒木城


2020年の大河ドラマ丹波で躍動した明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」に決まった。どのように光秀と丹波の関わり合いについて描かれるかにも注目したい。
筆者は光秀が丹波攻めの攻略対象とした城では、2007年冬に波多野氏の本拠、丹波八上城に訪れたことを思い出す。
そこから長らくの間、今に至るまで丹波の山城との付き合いが続いている。
荒木城は、その丹波の城の1つで篠山市東部に位置し、城主は八上城の波多野氏に従った国人・荒木氏である。

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荒木城縄張り図



荒木氏は波多野氏の一族と言われるが、実際の出自等はよくわかってはいない。

また、本拠の荒木城を永禄年間に築城したと伝えられるが、そのいきさつも不明である。
荒木城については天正年間に至り、確実な歴史が史料に残されることになる。
信長の一代記『信長公記』等に明智光秀による第二次丹波侵攻戦にて、天正六年四月、明智・滝川・丹羽の三氏により攻められ、水の手押さえられ落城したという事実である。時の城主は荒木氏綱で、この攻城戦では大激戦が繰り広げたとされ、その様子を伝えた「井串極楽、細工所地獄、塩岡岩ヶ鼻立ち地獄」という俗謡が残されている。
詳しい歴史や縄張り解説については『図解近畿の城郭Ⅲ』で取り上げたので是非、ご一読いただければ幸いである。
従来、荒木城は地元の方により登山道が整備され、土地の名を冠した細工所城と言う名前で親しまれてきた。
城址の整備については、必要な箇所を適宜伐採した日本各地に残される一般的な山城の様相を呈していた。

中央は灌木が茂り、両端部は見通せないが、
背の高い木々が適度な日陰をつくり、下草は、あまり繁茂していない。

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2013年10月撮影 本丸 写真位置①

中央は灌木が茂り、両端部は見通せないが、
背の高い木々が適度な日陰をつくり、下草は、あまり繁茂していない。

 

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2010年2月撮影 写真位置②の郭

 
適度な日陰があり、本丸同様に下草はあまりみられない。

 

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2013年3月撮影 写真位置③の郭

矢竹がやや繁茂した場所であったが、
内部にも十分足を踏み入れることができた。



このような荒木城に変化をもたらしたのは2016年春の多紀3小学校の閉校記念合同事情(狼煙プロジェクト)である。
その際に本丸一体は大規模に伐採が行われた。伐採は狼煙をあげ、それを見やすくすることを第一義としたもので、城址整備のためのものではなかった。
そのため伐採された木々や、それに付随する枝等が本丸を除いた郭に残された。
現在各種ホームページやブログ等で荒木城が紹介されている多くのものは、そのプロジェクト直後に登城したもの、もしくはプロジェクト前のものを掲載したものである。一部のブログではその状態を批判さえしているものもある。

 

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2017年8月撮影 本丸 写真位置①

灌木さらには背の高い太い木々も伐採され、
郭の東西も見渡せるようになった。
しかし日陰が少なくなり、下草が繁茂する状態となっている。
2017年の10月には下草は伐採されており、良好な状態になっていた。


このような状況を鑑みて2016年夏より地元&有志により城址の整備が始まった。
整備は約1年間にわたり継続されたものとみられ、今では篠山市で最も美しく整備された城となっている。

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2016年8月撮影 写真位置②の郭

木々が伐採され、山麓が見渡せるようになっている。
伐採された木々が郭内に、そのまま、放置された状態であった。

 

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2017年8月撮影 写真位置2の郭

郭内に放置されていた木々は適切な長さに切られ、一か所にまとめ、整理されている。

 

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2016年8月撮影 写真位置③の郭

伐採された木とそれに付随していた枝が高さ約2mにわたり堆積していた。

 

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2017年撮影 写真位置④の郭

2mにわたり堆積していた木や枝は取り除かれ、良好な状態となっている。

 

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2016年8月撮影 写真位置④の郭

伐採された木々がそのまま放置され、郭内に入ることすら困難であった。

 

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2017年8月撮影 写真位置④の郭

木々は、適切な長さにカットされ集約されている。

大雨・巨大台風・大雪を始めとした昨今の異常気象では再び城址が荒れる恐れがあり、整備は継続して行う必要がある。
筆者はこれからも整備保存活動が継続して行えることを願ってやまない。


さてそのような荒木城を次回からは山麓より登ってみたいと思う。

著作物の取り扱いについて

当ブログ・著作物の取り扱いについて

本稿では当ブログ運営上の著作物の取り扱いについて記していきたい。
当ブログでは、筆者が描いた縄張り図、鳥観図、並びに現地の案内板(説明版)を使用し城郭の紹介を行う。(筆者が描いた縄張り図、鳥観図の使用に関しては下記に記載)
昨今、城郭を紹介するブログHPは大変多く、その中では、書籍等の印刷物にある縄張り図をスキャニング及び撮影して、掲載しているものがある。
作図者及び出版社からの使用許可を得た上での掲載であれば問題はないであろうが、無断で掲載されているものがほとんどである。それらは著作権法に抵触している。註1
当ブログでは、訪れた全ての城の縄張り図は制作してはいない。

しかし閲覧いただく皆様には、わかりやすく紹介したい。
その為、上記のように書籍等の印刷物や他WEB上にあるものは使わず、筆者が描いた縄張り図、鳥観図、並びに現地の案内板(説明版)を使用していきたい。
現地案内板を使用する場合は著作権法の都合上、筆者自身が当ブログに対して以下の一定の制限をかけて使用する。註2
1. わかる場合は現地の案内板(説明版)の制作者、作図者名を明記する。
2. 着色・加工等は行わない。
3. 曲輪等の呼称に関しては案内板(説明版)に従う。註3
4. 加筆は写真を撮影した場所のみとする。(写真位置〇と記載)
5. 必要に応じて、モノクロ及びカラーにて使用。

筆者が描いた縄張り図、鳥観図の使用に関して

筆者としては見学会や、他WEBサイトにおいて作図者名を明記の上で使用される場合は全く異論はない。城郭啓蒙のためにぜひ活用いただければと思っている。

註1 著作権法第三十二条第一項に例外として条件付きで「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ報道、批評、研究その他の目的上、正当な範囲内で行わなければならない」とある。筆者は城郭紹介のWEBサイト及びブログでの使用は、例外としての正当な範囲内に当てはまるものではないと考える。
註2 著作権法第46条(公開の美術の著作物等の利用)

註3 呼称がない場合は、文中に筆者が呼称を記載する場合もある。


引用・参考文献 
高田 徹 2006「縄張り図と著作権 ―いくつかの事例を通して―」
     戦乱の空間編集会『戦乱の空間第5号』