南東尾根の曲輪群を歩く
中心部から南東の尾根に展開する曲輪群へ
本稿では、本丸から南東方向の尾根に連なる曲輪群へと歩いていきたい。
江戸時代中頃に成立した地誌『丹波志』では、この南東の曲輪群側を大手としている。
ゆえに中心部に次いでやや技巧的な縄張も垣間見ることができる。
この曲輪は、前稿「荒木城中心部を歩く」の写真位置⑬の曲輪西側にある枡形虎口から続く道を降ってきた所に位置する。この曲輪からは鉄砲丸を望むことができる。
荒木城攻めの付け城・鉄砲丸
天正6年(1578年)4月、明智・滝川・丹羽が荒木城を攻撃する際、荒木城東方の山上に付城を築いた。それが鉄砲丸である。織田方は鉄砲丸から、荒木城に向けて鉄砲を放ったという。上記写真の山頂部に鉄砲丸があるというが、筆者はまだ訪れたことがない。
伝・大手側の曲輪群
現在、曲輪⑯からは直接切岸に道が付けられ、ここへと降りるようになっている。堀切⑰の西側には、もう一本道があり、それを辿ると前稿「荒木城中心部を歩く」の写真位置⑬の曲輪西側の枡形虎口手前へと繋がる。現在は枡形虎口手前が若干崩れて登り難くなっているが、荒木城が機能した頃の本来の城道は、堀切⑰西側の道であろうと筆者は考える。
人工的に尾根筋を削り出し、一度に多人数が通過できないように工夫されてる。
南東郭群は西側の谷筋沿いに通路を作って、各曲輪間の往来に使用している。その通路脇には、規模の大きな曲輪を連続させて侵入者に備えている。
屈折した通路を作る竪堀
写真位置⑳の竪堀を下から撮影したものである。侵入者は城外より虎口㉑を通過して入る際、この竪堀に阻まれて直進させず、一折れさせられて城内へと導かれる。侵入者の突進力を削ぐためのひとつの工夫と考えられよう。
現在は土塁中央を削り登山道としているが、本来は上述のように土塁の西側の竪堀によって屈折された通路を通って城内に入った。この写真位置㉑の虎口より山麓に向けて南に延びる尾根筋が伝・大手と言われる。
次項では、北西尾根の曲輪群に向かってみたい。